一般財団法人 知と文明のフォーラム

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楽しい映画と美しいオペラ――その71

愛と夢の映画、スパイスは狂気と哀しみ――人生を歌う『ラ・ラ・ランド』

 

 

エンディングに流れた、哀愁に満ちたピアノのメロディーが、まだ頭のなかに響いているような気がする。左隣の若い女性も、右隣の中年の女性も、ハンケチで目をぬぐっている。大型映画館の、満席の観衆の誰もが立ち上がる気配もない。人生はこれからも続いていく……。余韻に満ちたラストである。物語の終結はこうでなければならない。

 

受けを狙って、予定調和のエンディングを企図することで、本編の充実度がいかに損なわれるかは、例えば年末に放映されたイギリス制作のドラマ『戦争と平和』がよく証明している。アウステルリッツやボロジノの戦いもリアルに描き、人間の弱さ、醜さを抉り出した本編が、能天気な結末で台無しになってしまった。主人公ピエールの、これからの波乱の人生を暗示する小説の結末とは、もちろん異なっている。

 

ところで、『ラ・ラ・ランド』のキャッチコピーは、「観るもの全てが恋に落ちる、極上のミュージカル・エンターテインメント」である。いかにも若者向けの、甘い恋愛ものミュージカルといった感じだが、なかなかそんな単純な映画ではない。本作は、デミアン・チャゼルの、音楽の狂気を描いた傑作『セッション』に続く監督第2作だが、内容の濃さを考慮すると、当年とって32歳という若さは信じられない思いである。

 

人生は出会いによって方向が定まる。それは偶然であるものの、神秘に満ちており、それゆえに必然かともみえる。主人公ふたりの出会いは、偶然を3度重ねて、ご都合主義の誹りを受けそうなものだが、逆に不思議なリアリティを生み出している。音楽という神秘を仲立ちにしているからなのだろうか。

 

夢を持て、自分自身であれ。そう若者に語りかけながら、この映画は、その道が危険に満ちており、狂気をも孕んでいることを見逃さない。追い風にのって自転車をこいでいると、風の存在さえ忘れてしまうものだ。ところが、停止して振り向いたとたん、激しい北風に愕然とする。本作は、容易ならざる社会の風をも描いている。

 

人との関係で、言ってはならない言葉がある。相手を傷つけ、関係をも壊してしまう。問題は、最悪の結果を予想しながら、その言葉を発してしまうことだ。追いつめられると人間は何でもする。人を殺すのに刃物はいらない。この人間の恐ろしさをも表現しているのが、この映画の深さである。しかも軽やかに!

 

資本主義の社会では、売れることこそが第一義である。ジャズも変わらなければならない。いつまでもモンクやアームストロングではなかろう。女性コーラスを配し、シンセサイザーを駆使するグループに主人公は入団する。高収入は得られるが、自分の愛するジャズではない。伝統とは何か。芸術に於けるこの普遍的なテーマを、本作は真面目に追究している。

 

美しく、激しい、歌やジャズや踊りの数々。そのミュージカル・エンターテインメントのなかに、よくもこれだけの人生を盛りこんだものだと感心する。自然で軽やかな分だけ、哀しみも深い。しかしエンディングがどのように思いがけないものであろうとも、恋人たちが見かわす心からの微笑は、明日を生きのびる糧となるはずである。結末の鮮やかさは、何度賞賛してもしすぎることはない。

 

2017年2月28日 於いて新宿バルト9
2016年アメリカ映画
監督・脚本:デミアン・チャゼル
音楽:ジャスティン・ハーウィッツ
出演:ライアン・ゴズリング、エマ・ストーン、J.K.シモンズ、ジョン・レジェンド、ローズマリー・デウィット

 

2017年2月28日 j.mosa
 


楽しい映画と美しいオペラーーその70

愛の概念の地平を広げる——『キャロル』と『リリーのすべて』

 

2016年に上映された映画のベストテンが発表された。権威があるのは「キネマ旬報」であろうが、「スクリーン」の洋画ベストテンには深い感慨を覚えた。10本のうち7本も観ている(「キネマ旬報」では4本)ということも感慨のうちのひとつだが、それよりも、性的マイノリティを扱った映画が2本入っていることに、時代を感じざるをえないのだ。

 

ところで、「キネマ旬報」「スクリーン」とも洋画の第1位は、クリント・イーストウッド監督の『ハドソン川の奇跡』である。劇的な事件を、機長の人間性も深く描いて、イーストウッドの職人芸が素晴らしい。万人に感銘を与えるという意味で多くの票を獲得したのはよく分かるが、第1位の映画なのだろうかという点では疑問は残る。

 

さて、『キャロル』と『リリーのすべて』を観たのは偶然だった。ある会合の帰り、時間を持て余し、たまたま帰宅途中にある飯田橋ギンレイホールに立ち寄ったのだった。観終わって私は、この2本の映画を組み合わせて上映したギンレイホールという映画館に、心からの敬意を捧げたく思った。性的な愛の概念の見晴らしを、遥かに広げてくれる映画だったのだ。
 


『リリーのすべて』は、世界ではじめて性的適合手術を受けた実在のデンマーク人、リリー・エルベがモデルである。女装して、画家である妻のモデルになったことを契機に、自らの女性性に目覚めていくアイナー(=リリー)の姿がリアルに描かれている。

 

女装傾向の著しい夫の行動に動揺した妻ゲルダは、何人もの医者にアイナーを診せる。時は1926年、アイナーは精神異常者としてしか扱われない。電気ショック療法など過酷な治療が、次第にアイナーを追い詰める。

 

しかしついに、「アイナーは病気ではない。彼のいうことは正しい」と診断する医者にパリでめぐりあい、彼の手で性的適合手術を受けることになる。生命の危機をも伴うこの手術に最後までつきあったのは、妻ゲルダである。

 

この映画は、アイナーという「男性」が、本来の自分である「女性」リリーを取り戻すトランスジェンダーの物語である。と同時に、夫をありのままに受け入れ、愛するという、妻ゲルダの困難な愛の物語でもある。ゲルダを演じたアリシア・ヴィカンダルは、アカデミー賞の助演女優賞を受賞した。

 

 

「キネマ旬報」でもベストテン入りを果たした『キャロル』は、レズビアンをテーマとしている。写真家になることを夢見ているデパート店員のテレーズは、玩具売り場で美しい人妻キャロルと出会う。恋愛のひとつの典型、一目惚れというわけである。対象は異性ではなく、同性であるのだが。

 

夫とは別居中で、娘の養育権問題で争っているキャロルも、純真なテレーズに惹かれていく。深まるふたりの愛。しかし探偵まで雇い養育権を得ようとする夫の妨害行為は、ふたりの仲を遠ざけてしまう。テレーズは写真撮影に没頭する日々となる。

 

幕切れはまことに感動的である。風前の灯のふたりのかすかな絆が危うくもつながることになる。空席を挟んで隣で鑑賞していた中年の女性から、低いうめき声が漏れた。顔を覆って泣き声を抑えている。主役のふたり、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラが、妖しい恋心を繊細に演じて素晴らしい。ルーニー・マーラは、カンヌ国際映画祭で主演女優賞を獲得した。

 

唐突だが、この社会は進歩しているのだろうか、と時に思う。悲観的な思いを禁じえない私ではあるが、『リリーのすべて』や『キャロル』のような映画がつくられ、これらが高く評価される時代になったことは、素直に喜びたい。日本においても、一部の自治体では、同性婚が認められるようになった。

 

2016年9月6日 於いて飯田橋ギンレイホール
『リリーのすべて』
2015年イギリス・アメリカ・ドイツ映画
監督:トム・フーパー
脚本:ルシンダ・コクソン(英語版)
原作:デヴィッド・エバーショフ
  『世界で初めて女性に変身した男と、その妻の愛の物語』
出演:エディ・レッドメイン、アリシア・ヴィキャンデル、マティアス・スーナールツ、ベン・ウィショー、セバスチャン・コッホ、アンバー・ハード
   
『キャロル』
2015年アメリカ映画
監督:トッド・ヘインズ
脚本:フィリス・ナジー
原作:パトリシア・ハイスミス『The Price of Salt』
出演:ケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラ、サラ・ポールソン、カイル・チャンドラー

 

2017年1月29日 j.mosa


楽しい映画と美しいオペラ――その69

敵討ちを超える普遍的心性――文楽 通し狂言『仮名手本忠臣蔵』

 

 

加藤周一は日本人の行動パターンを批判して「忠臣蔵症候群」と評したことがあった。たいしたことはない目的にも関わらず、徒党を組んで盲目的に邁進する姿勢を揶揄したのだろうが、この言葉が頭にあるゆえに、『忠臣蔵』にはずっと距離を置いてきた。今回文楽の公演を観ようという気になったのは、珍しく通しでの上演だったからだ。

 

10時30分の開演で、終演は21時30分、休憩を含めてなんと11時間! 我ながら驚いたのは、その長い時間のあいだ、少しも退屈しなかったことだ。巧みでスピーディな筋の展開といい、11話それぞれの中身の濃さといい、まことに面白かった。それに、かつて映画やテレビで観た『忠臣蔵』とは、まったく異質の内容だった。

 

劇のハイライトは当然討ち入りだと思っていたのだがその場面はなく、商人などに姿を変えた浪士たちの苦難の生活も描かれない。辛うじて、祇園一力茶屋での由良助の遊興ぶりが、イメージどおりだったにすぎない。観どころは、六段目「身売りの段」「早野勘平腹切の段」と、九段目「山科閑居の段」である。

 

おかるが祇園一文字屋に売られようとする「身売りの段」を観ている途中、幼いころ耳にした父の唄が、突如として頭に鳴り響いた。「私しゃ売られて行くわいなぁ父さん(ととさん)、ご無事でぇまた母さんも(かかさん)も」。そうか、あの唄はおかるの身売りの唄だったのかと、懐かしさでいっぱいになった。帰宅してネットで調べてみると、これは「どんどん節」の一節で、明治末期から大正初期のはやり唄らしい。浪曲師の三河屋円車が唄ったという。

 

さて六段目「早野勘平腹切の段」である。素人芝居で役を募ったら、皆が勘平をやりたがる、という話が落語にあるようだが、これはなかなか含蓄が深い。というのは勘平は、ある意味で落ちこぼれなのである。塩谷判官に近い家来でありながら、刃傷事件のときはおかるとの逢引で現場にはいないし、猪と間違えて人を撃ってもしまう。おまけにその懐から財布を奪うのである。その50両は徒党に入るための金であったにしても。

 

撃ち殺し財布を奪った相手が、舅の与市兵衛だと思い込んだ勘平の狼狽と苦悩が、「早野勘平腹切の段」の観どころである。豊松清十郎操る勘平が、罪の告白もままならず、じっと床を見つめたまま、耐えに耐える姿は心を打つ。それは大きな罪を背負い込んだ人間の、ぎりぎり苦しむ姿であり、落ちこぼれを遥かに脱している。

 

腹に脇差を突き立てたところで、殺した相手が与市兵衛ではなく、盗賊定九郎だと分かる。結果的には舅の敵を討ったことになるのだが、勘平の命も風前の灯。落語に登場する庶民たちも、たっぷりとこの不条理劇を味わい、振り幅が大きく人間味溢れる勘平に、深く感情移入したのに違いない。

 

娘は遊里に売られ、夫は盗賊に殺され、婿には切腹される。ひとり残された与市兵衛女房こそ、最大の犠牲者である。豊竹英太夫の切々たる義太夫と、桐竹紋壽操る老婆の哀れさには、涙を禁じえなかった。力弥と小浪の、一夜ぎりの夫婦の顛末を描く九段目「山科閑居の段」にも、無常観が色濃く漂う。

 

『仮名手本忠臣蔵』は、義をひとつの柱に据えながら、断ちがたい親子の情と、狂おしい男女の愛を描いた、長大な人間絵巻であった。人生は無常であり、不条理である。観終わったあと、しばらくこの感慨が胸を浸した。日本文化も奥が深い。


2016年12月15日 国立劇場小ホール
二代目竹田出雲、三好松洛、並木千柳合作
寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演

 

2016年12月19日 j.mosa
 


楽しい映画と美しいオペラ――その68

革命を予感させる放蕩者――北とぴあの『ドン・ジョヴァンニ』


悲劇的な未来を予感させる暗く重厚な響き。一転、曲調は軽快味を加えて、そのあと明と暗は絡まりあいつつ、レポレロの最初のアリアに引き継がれる。『ドン・ジョヴァンニ』の序曲は、じつに不思議で、とらえどころがない。それでいて、心に強く訴えかける。数あるオペラ序曲のなかでも、名曲中名の名曲である。オペラのエッセンスが、この序曲に凝縮されている。

 

柔らかく、奥深く、寺神戸亮が紡ぎ出す序曲を聴いていると、この日この公演に先立って根津美術館で観てきた円山応挙の絵が心に浮かんできた。雨に濡れ、風にそよぐ竹林を描いた「雨竹風竹図屏風」からは、湿気を含んだ空気まで感じられたし、華麗な羽をどっしりと垂らし天に向かって鳴き声を上げている「牡丹孔雀図」には、まるで生きているかのような生命力が溢れていた。表現力の類ない豊かさは、まさにモーツァルトに通じる。

 

さらに、これがひとりの画家の作品かと思えるほど、応挙の作品は多様であった。同じように、モーツァルト作品の多様性は他に例をみない。私の愛してやまない、ダ・ポンテ台本による三部作、『フィガロの結婚』『コシ・ファン・トゥッテ』『ドン・ジョヴァンニ』にしても、それぞれが愛をテーマにしながら、いかに異質であることか。

 

モーツァルトと応挙を同じテーブルで語るなど奇妙なことなのだが、じつはまったくの同時代人なのだ。応挙は1733年に生まれて95年に亡くなっている。モーツァルトは1756年生まれで没年は91年。ウィーンと京都、隔絶の距離にありながら、同時代性というのは不思議なものだと思う。

 

さて、北とぴあの『ドン・ジョヴァンニ』である。これは、歌手とともにオーケストラも舞台上にあるという、セミ・ステージ形式であった。衣装を着けて演技はするものの、舞台装置はまったくない。余計なものがない分、モーツァルトの音楽の美しさがストレートに伝わってくる。費用をかけないでいかに上質の舞台がつくれるのか、という見本のような上演であった。

 

実演、ビデオ、CDと、いままでいくつかの『ドン・ジョヴァンニ』を体験してきた。そのたびに、心を奪われる登場人物が異なってくる。作品の多義性によるものに他ならないが、これは演出の多様性を生み出している。また歌手の存在感も大きい。昨年9月17日のロイヤル・オペラによる上演(NHKホール)では、ドンナ・エルヴィーラの改心に瞠目したが、それはジョイス・ディドナートが素晴らしかったからだ。柔らかな声、細部にわたるコントロール、最終場面までの心の移ろい。

 

革命は階級差を意識したところからはじまる。今回のツェルリーナとマゼットは結婚衣装ではなく農民服である。マゼットの、貴族ドン・ジョヴァンニに対する反感も強烈である。やがて彼ら庶民の時代がやってくるだろう。佐藤美晴は、このオペラの初演から2年足らずで勃発するフランス革命も見据えて、演出に当たったに違いない。

 

世界が崩壊しようと、地獄に落ちようと、俺はやりたいことをやる! 改心などするものか! 自由万歳! ドン・ジョヴァンニの、この心意気、反抗心こそ、革命の核心であり、このオペラの魅力の源泉である。ゆえに佐藤は、正義の大団円でオペラを終わらせない。皆が勝利の歌を合唱しているのを尻目に、地獄に落ちたはずのドン・ジョヴァンニは、優雅にピアノを弾いているのである。

 

歌手、オーケストラ、演出と、三拍子揃ったオペラを堪能できた。何よりの功労者、指揮者の寺神戸亮さんには、格別の感謝を捧げたい。


2016年11月25日 北とぴあ さくらホール

 

ドン・ジョヴァンニ:与那城敬
レポレロ:フルヴィオ・ベッティーニ
ドンナ・アンナ:臼木あい
ドン・オッターヴィオ:ルーファス・ミュラー
ドンナ・エルヴィーナ:ロベルタ・マメリ
ツェルリーナ:ベツァベ・アース
マゼット:パク・ドンイル
騎士長:畠山茂

 

指揮:寺神戸亮
管弦楽・合唱:レ・ボレアード

 

演出:佐藤美晴

 

2016年11月29日 j.mosa
 


楽しい映画と美しいオペラ――その67

サスペンスフルな不条理劇――深田晃司『淵に立つ』

 

両親と娘の三人が朝の食卓を囲んでいる。妻と娘は神に祈りを捧げているので、キリスト教の信者だと分かる。夫はそれを意に介することなく、すでに食事を始めている。次の場面は夫の作業場。溶接作業なのか、火花が散り、騒音も著しい。彼は「行ってきます」の娘の声には辛うじて返事をするが、妻の声には反応しない。

 

そんな家族のなかに闖入するのが、浅野忠信演じる八坂である。工場主の利雄の古くからの友人であるらしく、住み込みで働くことになる。言葉遣いは丁寧で、白いワイシャツを常用するなど、几帳面な性格であることが分かる。彼についての情報は妻には何も伝えられない。しかし観客は、彼と利雄との会話から、彼が何年かぶりに刑務所から出てきたことを知る。

 

八坂はじつに不可解な存在である。小学生の娘にまで敬語で接するし、彼女にオルガンを教えもする。妻の章江とは信仰についての会話もこなす。章江は彼から、犯した殺人の罪についての告白を受けても、その誠実さを疑わない。そして惹かれていくことになる。そんな、冷静で、知的で、誠実な八坂が、あるとき一瞬豹変する。利雄に向かい、積年の怨念を爆発させるのだ。「お前、本当にちいせい奴だな。そんなに怖いか、俺が?」。このときの八坂の恐ろしさ、不気味さはただごとではない。

 

この映画は、ある平凡な家族が、異分子の闖入によって崩壊する様を描いているといえなくもない。しかし八坂が不可解な存在であるように、そんな一言でいいつくすことはできない。そもそもこの家族は、八坂が登場する前から崩壊していたのであり、彼の存在によって、亀裂が顕わになったにすぎない。八坂の存在を掘り下げることで、深田監督の考える「家族とはなにか」が見えてくるような気がする。

 

八坂が犯した11年前の殺人、そして利雄と章江の家族にもたらした大きな罪、これらについて、この映画は詳細に語ることはない。子どもにも好かれる心優しい八坂が、なぜ酷い罪を犯してしまうのか。小さな伏線は敷かれてはいるが、結局私には分からなかった。じつは当の八坂自身にも分からないのではないか。人間は、自分のことすら明確には理解できない存在である、と考えるほかはない。そんな不条理な八坂を、優しく、繊細に、知的に、冷酷に演じた浅野忠信は素晴らしい。

 

一人の人間を丸い円で表すとする。人と人とのつながりは、その円が交わることである。交わる部分が多いほど親密な関係といえる。しかし完全に交わることなどあり得ない。まして自らの円についての認識が薄弱であれば、他者との関係は苦行とならざるを得ない。人は家族をつくることができるのか? 深田監督は、恐ろしいまでの人間の孤独を描いているのだ。

 

この映画は、多分に心理学的・哲学的な映画である。しかしながらとてつもなく面白い。ストーリーの展開に飽きさせるところがない。十分にサスペンス映画でもある。役者も皆いい。そして闇のように暗い孤独を描きながら、それでもなお生きなければならない人間の背中を、最後にそっと押してくれる。深田監督の力量は確かである。

 

2016年11月1日 有楽町スバル座
2016年日本・フランス映画
監督・脚本:深田晃司
出演:浅野忠信、筒井真理子、古館寛治、太賀、篠川桃音、真広佳奈

 

2016年11月3日 j.mosa


楽しい映画と美しいオペラ――その66

象徴性に溢れた名舞台――二期会の『トリスタンとイゾルデ』


『トリスタンとイゾルデ』第2幕の劇的な幕切れ。私は拍手をすることができなかった。できなかったというより、拍手を忘れた。あるいは忘れるくらい呆然自失の状態に連れていかれた。緊張感に満ちた音響が、畳みこむように聴く者の全身を包みこむ。トリスタンを裏切った、友人メロートとの決闘の場面である。トリスタンは瀕死の重傷を負うのだが、それが相手によるものなのか、自らの手によるものかは問わず、いずれの演出でも十分に衝撃的である。しかしこの舞台は、それだけでは終わらない。

 

舞台装置といえば、左右の巨大なパネルのみ。そこには、細かな草様の模様が、暖かい色彩で無数に描かれている。それは、春の命の息吹のように、太陽に向かって点描されている。床にも同じような、一面の点描画。そして中央に一層の小舟。この小舟を、トリスタンとイゾルデは、静かに漕ぐ。前にイゾルデ、後ろにトリスタン。立ったまま、静かに漕ぐ。歌手の動きは、ワーグナー随一の官能の音楽と溶けあう。有名な愛の二重唱の場面である。永遠の愛もあり得るのか! この曲がこれほど身に染みたことはない。

 

第1幕も、また第3幕も、舞台装置は同じである。ただパネルに描かれた絵は異なる。第1幕は、海を表す青い波様の模様。第3幕は、墨を天に向けて跳ね上げたような、荒々しい、漆黒の図形。第2幕の模様も含めて、それぞれは各幕の主題を象徴する。そして、すべての幕に登場する小舟は、トリスタンとイゾルデの愛の象徴であろう。これらのことは、頭で考えるまでもなく、ワーグナーの音楽に導かれて観劇するうちに、おのずから分かってくる。優れた演出とはこう舞台をいうのだろう。

 

最近のバイロイトは伝統を壊すに急で、演出が音楽の素晴らしさを妨げている。細かな動作ひとつひとつに意味を問わねばならないとしたら、観る者は疲れるだけだ。かといって、2007年のミラノ・スカラ座のパトリス・シェローの舞台など、重々しい装置も含めて、リアルに過ぎる。ワーグナーの音楽は象徴に満ちているのだ。その音楽をそのまま舞台にする、それで成功したのが、今回のヴィリー・デッカーの舞台であろう。

 

さて、問題の第2幕の幕切れである。ヴィリー・デッカーのプロダクションをこれから観ようとする方のためにも、ここで明かすのはヤボというものだろう。ただ、幕切れ近くの、トリスタンとイゾルデの会話を注意深く聴くなら、この意表をつく終わり方も、決して不自然ではない。いずこに行こうと、二人の魂はともにあるのだから。

 

60年余の二期会の長い歴史のなかで、今回がはじめての『トリスタンとイゾルデ』だという。まさに満を持しての上演であるが、その思いは十分伝わってきた。タイトルロールの福井敬と池田香織は、大型の欧米の歌手に決して引けをとらない。日本人歌手の水準の高さを改めて実感させられた。もちろん全体を統括したスペインの指揮者、ヘスス・ロペス=コボスが、上演成功の第一の功労者であろう。読響を通して紡ぎ出されるワーグナーの無限旋律に、私はすっかり酔ってしまった。

 

2016年9月11日 東京文化会館

 

トリスタン:福井敬
イゾルデ:池田香織
ブランゲーネ:山下牧子
マルケ王:小鉄和広
クルヴェナール:友清崇
メロート:村上公太
牧童:秋山徹
舵取り:小林由樹
若い水夫の声:菅野敦

指揮:ヘスス・ロペス=コボス
合唱:二期会合唱団
管弦楽:読売日本交響楽団

 

演出:ヴィリー・デッカー

 

2016年9月17日 j.mosa


 


楽しい映画と美しいオペラ――その65

誰が『ローマの休日』を書いたのか――『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』

 

8月16日にNHKBSで放映された『ジョニーは戦場に行った』は、アメリカの名脚本家、ダルトン・トランボの唯一の監督作品である。名画にはいい脚本は不可欠だが、脚本が優れているからといって名画になる保障はない。この作品もいささか平板で、映画としての面白味に欠ける。しかし、「命とはなにか」「正義とはなにか」「戦争とはなにか」を問うて、原作者トランボの問題意識の高さが窺われる。そのトランボの、戦後13年間の苦闘を描いた映画が、『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』である。

 

トランボを苦しめた元凶は、1938年に設立された下院非米活動委員会House Committee on Un‐American Activities(略称HUAC)である。これは国内のナチス支持集団による破壊活動の抑制を目的として設立されたのだが、やがてその主要目標を共産主義者へと転じる。そしてハリウッドでは、HUACに迎合する組織「アメリカの理想を守るための映画同盟」が結成される。ここの議長、ジョン・ウエインとトランボの対決は、この映画の観どころのひとつである。

 

1947年当時、トランボはハリウッドきっての売れっ子脚本家で、妻と3人の子どもとともに充実した日々を送っていた。しかし労働問題に取り組むなど社会意識の高かったトランボは、冷戦を背景としたHUACの赤狩りにまっさきにひっかかってしまう。議会に召喚され、証言を拒否したことで議会侮辱罪で訴追される。裁判で敗訴し、1950年6月から51年4月まで刑務所に収監されることになる。

 

トランボと志を同じくする映画人は「ハリウッド・テン」と呼ばれたようで、彼らをはじめ「破壊分子たち」はブラックリストに載せられ、1947年以降業界から追放される。これに抵抗するトランボたちの活躍が、この映画のハイライトである。働かなければ食ってはいけない。しかし働く場を奪われている。ではどうしたのか。偽名を使い、あるいは人の名を借りて脚本を書き続けたのだ。『ローマの休日』はこうして生まれた。アカデミー賞原案賞は、名を借りた友人のイアン・マクレラン・ハンターが受け取った。

 

痛快なのは、B級映画のプロデューサー、フランク・キングとの関わりである。彼は政治にはまったく関心がなく、金と女のために映画をつくっているような男。トランボたちは彼から、「質は最低限、量は最大限」の仕事を安値で請け負う。クレジットはもちろん偽名である。HUACがかぎつけてトランボたちの排除を進言するが、キングはバットを振り回してその代理人を追い返してしまう。

 

政治信条など持たない、自分の欲望に忠実なキングのような男がトランボたちの窮状を救ったのとは対照的に、思想上のかつての同志、俳優のエドワード・G・ロビンソンは、公聴会で仲間を密告する(この映画には登場しないけれども、『エデンの東』の監督、エリア・カザンも11名の仲間を売った)。理念は簡単に崩れ去るけれども、欲望に根差した事業欲は結構しぶとい、という好例か。

 

俳優のカーク・ダグラス、監督のオットー・プレミンジャーはいい役どころである。前者は『スパルタカス』、後者は『栄光への脱出』の脚本を依頼するためにトランボを訪れる。ともにHUACの圧力を跳ね除けてのことである。1960年に公開されたこの2作品で、トランボの名前がクレジットに復活することになる。苦節13年、ダルトン・トランボは硬軟の手段を使い分けて、見事に映画界に復活を果たした。

 

この映画では、かつてのフィルムを随所に挿入することで、リアリティの厚みを増している。元大統領、ニクソンとレーガンはニュース映画で登場するが、2人ともHUACで暗躍する若き姿である。いっぽうケネディは、『スパルタカス』を絶賛することで、大いに点数を稼いでいる。『スパルタカス』といえば、ヒロイン、ジーン・シモンズが大きく映し出されて、その美しさは、私を遥か中学生時代まで連れ戻してくれた。

 

この映画は、アメリカの暗黒時代を、リアルに細やかに描いた社会派作品である。しかしその手法は、軽やかでユーモアに富んでいる。裏切り者の背景にもキチンと目を向ける優しさもある。また、家族を顧みないトランボの独善性が妻の視点で捉えられるなど、じつに重層的な視野を持つ。近頃では傑出した作品のひとつといえるだろう。

 

2016年8月29日 TOHOシネマズシャンテ
2015年アメリカ映画
監督:ジェイ・ローチ
脚本:ジョン・マクナマラ
出演:ブライアン・クランストン、ダイアン・レイン、ヘレン・ミレン、ルイス・C・K、マイケル・スタールバーク、ジョン・グッドマン、エル・ファニング

 

2016年8月31日 j.mosa


楽しい映画と美しいオペラ――その64

中国現代史を証言する――胡傑のドキュメンタリー映画


かつてはほとんど関心がなかったスポーツ中継をよく観るようになった。テニス、サッカー、野球、相撲などである。歳を重ねて自由な時間が増えたという単純な理由もあるけれど、スポーツマンの常人ならざるパワーには圧倒される。同じ人間でありながら、彼我の能力のあまりの落差に愕然とし、感嘆する。しかしなによりも、スポーツは現在進行形のドキュメンタリーである。人間のドラマが凝縮されている。

 

スポーツに対してと同じように、ドキュメンタリー作品への関心も高かったとはいえない。悲惨な現実をリアルに眼前に突きつけられることに、いささか抵抗があったようでもある。映画にせよ、文学にせよ、虚構というフィルターを通すことによって、より思考が深められるのではないかと、ずっと考えてきた。こんな偏見を見事に打ち砕いてくれたのが、中国のドキュメンタリー映画作家、胡傑氏である。

 

5月24日の専修大学での『星火』上映会に参加したのは、まったくの偶然だった。友人が誘ってくれなければ、胡傑という名前を知ることはなかっただろうし、ドキュメンタリー映画の可能性に思いを致すこともなかっただろう。2時間の映像が、1冊の本を読むこと以上に歴史を語ってくれる。事件の当事者が歴史の現場で証言することは、彼を取り巻く風景もあいまって、観る者の思考のみではなく、心にも訴えかける。

 

1960年、甘粛省の蘭州大学の教員と学生は、「星火」という雑誌を発行して、「大躍進政策」下の地方の農村の実態を党上層部に知らせようとした。映画『星火』は現在の彼らにインタビューすることで、当時の農村の実態や知識人の動きを、生々しく再現する。

 

「道ばた、木の下、畑のなか、至るところに死体がごろごろしている。いっぽう政府の広報は、大増産、大豊作だという」。いったいどうなっている! 矛盾を解決したいという人間としてのまっとうな思いが、雑誌「星火」に結実する。しかし、社会を良くしたいというその行動が、「右派」とみなされるのだ。

 

40名余が罪に問われ、中心人物2人は死刑に処される。右派とは資本主義に走る者ではなく、共産党の政策を批判する者を指す言葉なのだ(私はこの言葉の意味をはじめて理解した)。すでに老境に達した彼らの激しい憤りは、観る者に歴史の見直しを迫る。5月28日に上映予定の、文化大革命をテーマとしたドキュメンタリーも観たいと、私は強く思った。

 

私が大学時代を送った1960年代末、社会変革を志向する若者たちにとって、中国の文化大革命はひとつの希望だった。四日市の大気汚染、水俣病、イタイイタイ病などの公害がつぎつぎに明らかになり、資本主義経済のひずみが喧伝されていた。いっぽう、社会主義国のソ連は、1968年、民主化を求めるチェコに武力侵攻する。

 

ソ連型社会主義に絶望する若者たちは、文化大革命という中国社会主義の実験に、新しい未来を見たのだった。インテリ批判も、学生の農村への下放も、「貧困のユートピア」への一里塚と理解した。私が当時アルバイトをしていた某出版社の春闘でも、「造反有理」「毛沢東万歳」と大書された看板が、堂々と立てかけられていたものだ。

 

1966年8月、北京師範大学付属高校の女性副校長が、同僚の讒訴がもとで紅衛兵に殺害される。文革による最初の犠牲者といわれており、『私が死んでも』はその副校長の夫へのインタビューを中心に構成されている。彼は妻が殺害された翌日にカメラを購入して、その後の顛末をフィルムに収めた。

 

インタビューの間に挿入されるこれら数々の写真も、貴重な歴史的資料である。殺害された妻の死体には殴打のあとが痛々しく、虐殺されたことが明白である。部屋の至るところには学生による落書きがあり、彼ら一家への非難の激しさを物語る。

 

夫は妻の死体をフィルムに収めただけではなく、妻が虐殺されたときに身に着けていたあらゆる物を残した。使い古しの鞄のなかに封印されていたそれらの遺物が、ひとつひとつ取り出される。映像の迫力というしかない。時計やバッジ、口に詰められていた綿やガーゼ、血痕と糞便にまみれた衣服! 40年を経てなお生き続ける亡き妻への痛恨の思いは、この映画を撮る胡傑監督の歴史家魂と激しく共振する。

 

このドキュメンタリーは、文革の暗部、その暴力性を容赦なく暴いている。毛沢東夫人の江青は暴力を公然と肯定し、暴力が政府公認のものとなる。造反有理。以降、数多くの知識人が紅衛兵の手で殺されることになるのだが、北京師範大学付属高校副校長虐殺事件は、文革のその後の暗い歴史を暗示しているようである。

 

文革は、「大躍進政策」の失敗で権力を失った毛沢東の、若者と人民解放軍を背景にした、権力奪還闘争だった。文革の10年間は中国を荒廃させ、分けても学問の停滞を招いた。このように文革は総括され、このドキュメンタリーもその評価を裏付けるものだとも考えられる。しかしことはそう単純ではない。

 

現代中国は、世界を牽引する経済大国に成長した。しかし、貧富の差、都市と農村の格差、大気汚染、食料汚染、いずれも資本主義国と異なるところがない。言論の自由がない分、さらに過酷な国ではないのか。なぜ中国はこのような国になってしまったのか。毛沢東と文革をきちんと総括しなかったことにも原因があると、終映後、胡傑監督は語った。現代の中国に於いて、毛沢東を語ることも、文革を語ることも、タブーに等しいという。

 

胡傑監督にとって、文化大革命は生涯のテーマなのだ。『私が死んでも』は一面的ではないかとの懸念も自ら表明した。紅衛兵であった人たちの発言がないからである。彼らすべてからインタビューを断られたらしいが、文革の全体像を求めて、さらに取材を続けたいという。胡傑さんには、映像作家の芸術性と、歴史家としての思想性が、みごとに同居している。常に当局の監視下にあるという胡傑さんだが、その歴史再発見の旅が無事に進められることを、心から祈りたい。

 

2016年5月24日
『星火』
5月28日
『私が死んでも』
いずれも専修大学神田校舎にて

 

2016年6月16日 j-mosa
 


楽しい映画と美しいオペラ――その63

モーツァルトと音楽の自由――ニコラウス・アーノンクール追悼


指揮者のなかでだれが一番心に残っているか、と問われれば、やはりニコラウス・アーノンクールと答える。彼のつむぎだす音楽は、とにかく刺激的である。クラシック音楽の世界で「刺激的」とは、ほめ言葉にはならないかもしれない。他に「革命的」とか「攻撃的」とか「論理的」とか様々に表現できようが、彼の音楽には、やはり「刺激的」という言葉が一番ふさわしい。

そのアーノンクールが、3月5日にオーストリアのザンクト・ゲオルゲン・イム・アッターガウの自宅で死去した。1929年生まれというから、享年86歳。心から哀悼の意を表したい。昨年12月のウィーン・コンチェントゥス・ムジクスの演奏会をキャンセルしたあと引退を表明したが、こんなにも早く逝くとは思ってもいなかった。しかし死の直前まで演奏会の準備をしていたのだから、音楽家として幸せな最期だったと思う。

アーノンクールの指揮した音楽はモンテヴェルディからバルトークまで幅が広い。そのなかでとりわけ愛する作曲家は、バッハとモーツァルトだと、さまざまな場で発言している。彼の口からこの言葉が発せられるたびに、私は嬉しくなったものだ。好みが同じだという喜びは、アーノンクールとの距離をさらに縮めることとなった。

アーノンクールの音楽の刺激度は、モーツァルトに於いてより顕著であるように思う。たとえばオペラ。『コシ・ファン・トゥッテ』の面白さを知ったのは、アーノンクールのDVDからである。香り立つエロスに圧倒されたものだが、自分のブログを引用しよう。「グリエルモがドラベッラを口説き落とす、バリトンとメゾ・ソプラノの二重唱の場面など、音楽は濃密な官能に満たされ、これ以上先に進められるのだろうかと観るものを惑乱させるほどの危うさである」(2006年12月10日)。

次の引用は2006年のザルツブルク音楽祭での『フィガロの結婚』第2幕に関して。「ケルビーノのアリア「恋とは何かを知るご婦人方」には、伯爵夫人やスザンナならずとも、男の私でさえ、恍惚の境地にひき込まれてしまう。アーノンクールは、もう、音楽の流れなどにこだわらない。少年ケルビーノの、女性に対する憧れや欲望、満たされない想いなどが、尽きぬ泉のように溢れ出、渦巻き、ときに行き場を失う。ケルビーノのクリスティーネ・シェーファーが素晴らしい」(2007年10月29日)。

アーノンクールの音楽は、聴く者の心に、そして身体に、直接訴えかける。18世紀の古い音楽が、21世紀に生きる私たちの身体に沁みわたり、心は愉悦に満たされる。その「刺激性」は、どうやら「音楽の自由」に由来するらしいことが分かってきた。昨10日の深夜(11日の早朝)、NHKBSプレミアムでアーノンクール追悼の番組があったが、前半はモーツァルトのピアノ協奏曲17・24番の録音風景であった。ラン・ラン相手のそのドキュメンタリーは、アーノンクールの音楽の秘密を解くカギに満ちていた。

オーケストラはウィーン・フィル。ラン・ランはモーツァルトははじめての録音だという。名手ラン・ランにして「怖い」と言わしめるほどモーツァルトは難しい。弾くにはやさしそうな楽譜の奥にあるモーツァルトの神髄を、アーノンクールはラン・ランに伝えようとする。歴史的背景はもちろん、当時のピアノの構造、モーツァルトの手紙、はては彼の家庭の事情にも通じていて、飼っていたホシムクドリの影響までも!

録音の過程で、プロデューサーがダメを出す。ある部分のソロとオケが合っていない、と。アーノンクールは意に介さない。多少の不揃いは問題ないというのだ。音楽における真の自由の範囲内であり、逆に音が均一に聞こえないように心掛けているのだ、と。テンポの揺れも大きく、その危うい均衡のなかに、音楽の命が息づいている。「音が水の上で飛び跳ねているような」と、ラン・ランはアーノンクールの柔軟性を表現する。

「音楽は言葉であり、ただの音ではない」と主張するアーノンクールは、モーツァルトの喜びを、いたずら心を、悲しみを、苦しみを、思想までをも、表現しようとする。楽譜どおりに、精緻に、美しく演奏することが主流の音楽界にあって、アーノンクールは常に異端児であった。カール・ベームを激怒させたというアーノンクールのモーツァルトは、「全体小説」ならぬ「全体音楽」として、これからも輝き続けるであろう。

2016年4月11日 NHKBSプレミアムで放映
ドキュメンタリー「ミッション・モーツァルト」

2016年4月11日 j-mosa

楽しい映画と美しいオペラ――その62

それでも人は生きていく——『恋人たち』の絶望と一条の光

「人間は生まれながらの敗者である」。私の愛する藤沢周平がどこかのエッセイで書いていた言葉である。滋味深い彼の時代小説の底を流れるこの認識は、小津安二郎の映画にも密やかに流れている。ともに人間の、一見穏やかな日常をたんたんと描きながら、それらの作品がときに類いのない深さを見せるのは、彼らのこの想いのゆえではないかと思う。

『恋人たち』をつくった橋口亮輔監督の胸中に流れている想いも、同じような諦念なのではないかと想像される。小津に比べるとはるかに表現の振幅は大きいのであるが、この映画から受けた私の感動は、小津作品からのものと同質の、深い森のなかに独り佇むような静寂なものだった。

この作品は橋口監督のオリジナル・ドラマである。にもかかわらずドラマとは思えない。まるでドキュメンタリーである。3人の恋人たちに橋口がインタビューをし、その記録を残したのではないか、とさえ思えてくる。それほどにリアルなのだ。作品はもちろんカラーである。しかし私の心にはモノクロームの映像として残っている。暗い川をゆく橋梁点検の船、夫と義母と囲む息苦しい食卓、クライアントと対面する冷ややかな弁護士事務所……。

人には生涯に何度か大切な出会いがある。首都高の橋梁点検を仕事としているアツシにとって、妻との出会いは何ものにも代えがたい大切なものであった。彼は言う。「妻は、内気でなんの取り柄もない自分を初めて好きになってくれた女性であり、暗いだけの自分の人生に明かりを灯してくれた女性だった」。そんな女性と生活を共にして、ありえなかった幸せをかみしめていたとき、突然不幸が襲う。妻が通り魔に殺害されるのだ。絶望と憎しみの淵から這い出せないアツシが第一の主人公である。殺意さえ胸に秘めた絶対的な不幸を、アツシはどう生きるのか。

第2の主人公瞳子は、心の通わない夫と義母とともに、狭い平屋に住んでいる。義母は使用済みのラップを壁に貼り付け再利用するほどの吝嗇家。妻よりも義母を重んじる夫とは会話は乏しく、セックスもなおざりである。倦怠感に満ちた毎日のなかに、いささか覇気のある男が登場し、彼女は惹かれていくことになる。

四ノ宮は自分本位なエリート弁護士で、ゲイである。若い恋人に去られて、学生時代から思いを募らせていた友人にはキチンと心情を告白できない。彼に対して感情移入することは難しいが、このような人物を第3の主人公としたところにも、橋口監督の視野の広さを感じる。

自分からは遠いはずの3人の恋人たちが、自分の近しい隣人と思えてくるところに、この映画のリアリティがある。隣人どころか、彼らは自分ではないかとも感じる。人生は危険な綱渡りであり、そのか細いロープを自分もよろよろと伝っているのだ。つくづくとそう思い、それゆえ、彼らに強い親近感を覚える。

しかし人は、絶望の底では生きてはいけない。ではいかにしてそこから這い上がり、生き延びていくことができるのか。この映画の主人公たちは、主体的に壁を破ることはできない。自らを客観視できるような知性は与えられてはいない。私たちと同じような普通の人間にすぎないのだ。

不幸は他者と関わるところから生まれる。ところが人は、他者と関わりなく生きていくことは不可能である。人はこのパラドクスを生きるしかなく、ここにこそ救いがあるとこの映画はいっているようだ。手首を切ろうとして死にきれないアツシのもとに、同僚の黒田がコンビニ弁当を携えて訪ねてくる。アツシは苦しみを吐露し、黒田は優しく耳を傾ける。そしてカツを食べ、ビールを一緒に飲んで帰っていく。同僚を演じる黒田大輔がとてもいい。一条の光である。

橋口監督の映画をひとつとして観たことがなかったというのはまことに恥ずかしい。絶望のなかにユーモアがそっと紛れ込む不思議な世界。未知のものに触れる喜びを味わったものだが、知ることは「敗者の人生」のなかでの、数少ない喜びであろう。

2016年1月29日 テアトル新宿
原作・脚本・監督:橋口亮輔
出演:篠原篤、成島瞳子、池田良、光石研、安藤玉恵、木野花、黒田大輔、山中聡、内田慈、山中崇、リリー・フランキー
2016年2月3日 j-mosa
 


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