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  • 2020.04.21 Tuesday

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    楽しい映画と美しいオペラ――その93

    • 2020.03.21 Saturday
    • 16:08

    能は600年の伝統オペラか!——坂井同門会の『松風』

     

     

    新型コロナウイルスのせいで、コンサートも中止続きである。3月1日のヘンデルの『シッラ』(神奈川県立音楽堂)、13日のフィリップ・ジャルスキーのリサイタル(東京オペラシティ)。いずれもとりわけ楽しみにしていただけに残念でならない。家でひっそり閉じこもっていたら、友人から能のお誘いがあった。

     

    この会の例会はいつも満席で、開場前には長い行列ができるのだが、今回はさすがに人が少ない。500人近く入る宝生能楽堂は100人にも満たない。観客が少ないうえ、換気を良くするためドアを開放している。上演中寒くて仕方がなかった。このように、会場は寂しく、寒々としていたのだが、上演はそれに反して、熱気にあふれたものだった。

     

    日本の芸能や音楽の源泉といわれている能について、私は決していい鑑賞者ではない。それでも近頃は、これまでほとんど顧みることのなかった「日本」という存在を考えてみようと、歴史書を繙いたり、古典芸能を観たりと、それなりの努力をしてきたつもりである。もちろん、国立能楽堂にも足を運んではいる。しかし、能はなかなかに手強い。すんなり入っていけた文楽とは質を異にするものだった。

     

    文楽は大衆芸能である。普通の生活者である私たちの日常感覚と舞台は、それほどの距離はない。親子の情愛や愛しい人への恋情。義侠心への共感に悪への怒り。なによりも、三味線にのって唄われる義太夫は、直接に人の心に訴えかける。さらにその心情を、人形が分かりやすく表現してくれる。

     

    能は、開演の仕方からはじまって、終演のやりようまで、型がある。喜びも哀しみも、素直に表には出てこない。舞が素晴らしいからといって、その場で拍手もできない。舞台も、文楽のような華やかさは微塵もない。松や鐘や船など、演目によっては装置がないこともないのだが、まずはなにもないと思ったほうがいい。すべては観るものの想像力に任されているのだ。ある程度の知識がないと、能は楽しみようがない。

     

    能への、そのような私のわだかまり、あるいは距離感を、当夜の『松風』は吹き飛ばしてくれた。ああ、能はオペラなのだ! うすうす感じていた思いを、強く実感することとなった。主役の松風はアリアを歌い、レチタティーヴォを語る。妹の村雨との二重唱も素晴らしい。地謡はもちろん合唱であり、オーケストラは3人の奏者、大鼓、小鼓、それに能管。鼓奏者たちが時に発する掛け声も、オケの一部である。おまけに松風の、終幕近くの舞!

     

    謡の、高音への突如とした音程の高まりは、西欧のどのようなオペラでも耳にしたことがない。5線譜では表現できない音程である。このような微妙な音程は、謡ばかりではなく、義太夫や長唄、清元などにも頻出する。この、音の多様性は、日本の音楽、さらには広くアジアの音楽の豊かさであろう。

     

    さて『松風』は、話としてはきわめてシンプルである。須磨の浦で松の古木とめぐりあった旅の僧(ワキ)は、それが海士の姉妹、松風(シテ)・村雨(ツレ)の旧跡だということを知る。平安の時代、左遷で流された貴族、在原行平(業平の兄)との悲恋の物語を、僧はわきまえていたのだった。そして、一夜を借りた宿で、姉妹の霊と交歓することとなる。

     

    観どころ、聴きどころは、松の古木を行平と間違え、舞い狂う松風の場面である。すでに霊となりながら、村雨に静止されるほどの狂態。大鼓、小鼓が、激しい掛け声とともに乱打される。そして、空間をつんざくかのような能管の響き。松風の坂井音隆、村雨の坂井音晴両師の、若々しくも切ない舞と謡は、心を激しく揺さぶるものであった。

     

    室町の時代に、これほど素晴らしいオペラが存在し、それが600年余の間上演され続けてきた。西欧のオペラの歴史よりさらに200年も遡る。日本の文化、畏るべし。つくづくそんな感想をもった一夜であった。坂井同門会には感謝申し上げる。

     

    2020年3月10日 宝生能楽堂

     

    観阿弥作、世阿弥改修
    松風:坂井音隆
    村雨:坂井音晴
    旅僧:大日向寛
    里人:山本則孝
    大鼓:柿原弘和
    小鼓:曽和正博
    能管:松田弘之
    地謡:中家美千代、藤田智子、小野栄二、古枝良子
    武田照、藤波重彦、坂井音重、坂井音雅

     

    2020年3月13日 j.mosa

    楽しい映画と美しいオペラ――その92

    • 2020.02.18 Tuesday
    • 21:58

    賞に値する作品であるか?——韓国映画『パラサイト 半地下の家族』

     


    韓国映画の『パラサイト』がアカデミー賞の作品賞を獲得した。昨年のカンヌ国際映画祭でのパルムドール受賞と合わせて2冠である。これはめでたいことといわねばならない。分けてもアカデミー賞では、はじめての外国語映画の受賞ということだ。アジアの映画が評価されたこと自体は素直に喜びたい。

     

    新聞、テレビをはじめ、ここ数日のジャーナリズムは、称賛の嵐である。韓国社会の格差の実態を見事に描き、しかも物語の面白さは無類である、などなど。しかし、批判的な記事が皆無であることに、私は強い違和感を覚える。本当にこの作品は、世評のいうような傑作であるのか、と。

     

    私は、観終わったあとの、後味の悪さを忘れることができない。私にとって、後味の悪い映画を優れた映画と呼ぶことはできない。それゆえ、映画好きの友人にも、観ることを勧めないできた。そして、その後味の悪さの原因ははっきりしている。この映画は、「寓話」のセオリーを逸脱しているのだ。

     

    職のない貧困家庭とIT企業の社長の家庭。住む家は、狭い半地下と高台の広壮な家。登場人物も凡庸にカテゴライズされていて、主人公たちは、手練手管を用いて、臭気にみちた半地下から天上の豪邸へと駆け上る。その間に、失敗もあり、思いもかけない事態も出来(しゅったい)するが、それらを含めて、この物語は、貧しい者たちの寓話である。であるならば、彼らが成功するしないにかかわらず、彼らに不快感を与えてはならない。

     

    貧しい彼らが天上の世界に駆け上がるについて弄する手段は、あまりに汚く下劣である。しかも、追い落とす相手は、同じ貧しい者たち、運転手と家政婦ではないか。面白おかしく描いているものの、私はまったく笑うことができなかった。不快さを噛み締めていたといっていい。

     

    優れた映画は、主人公が殺人者であろうが、詐欺師であろうが、観るものにある種の共感を呼び起こすものである。彼らが犯す悪のなかに、自らを見るからだ。この殺人者は、あるいはこの詐欺師は、ひょっとしたら自分ではないか、という慄きを感じるのだ。『パラサイト』の登場人物には、誰ひとり共感を覚えることはなかった。

     

    このコラムは、基本的に、私が感動を覚えた作品を紹介することにしている。今回ははからずも例外になってしまった。それは、ジャーナリズムの、あまりの偏りに危惧を覚えたことも一因である。どの新聞もどのサイトも、同じような言葉でこの作品を称賛している。これはやはり異常なことだといわざるを得ない。意外な話の展開は確かに面白くはあり、格差を匂いで象徴するなど、光る才は随所に見られたのであるが。

     

    2020年1月29日 於いて吉祥寺オデヲン

     

    2019年 韓国映画
    監督:ポン・ジュノ
    脚本:ポン・ジュノ、ハン・ジンウォン
    音楽:チョン・ジェイル
    撮影:ホン・ギョンピョ
    編集:ヤン・ジンモ
    出演者:ソン・ガンホ、イ・ソンギュン、チョ・ヨジョン、チェ・ウシク、パク・ソダム

     

    2020年2月14日 j.mosa

    楽しい映画と美しいオペラ――その91

    • 2020.02.06 Thursday
    • 08:44

    文楽人形は理想の女性像?——谷崎潤一郎『蓼喰う虫』

     


    谷崎潤一郎は文楽の人形になにを託したのだろうか。『蓼喰う虫』は、離婚の危機にある夫婦を描きながら、その背景に文楽を置いている。道頓堀の『心中天の網島』と淡路の『生写(しょううつし)朝がほ日記』などである。それらは背景にすぎないのだが、当時の谷崎の、日本の古典芸能への関心の高さをあらわしている。

     

    主人公の要は、義父、つまり妻美佐子の父の誘いで、道頓堀まで文楽を観にいくことになる。50歳代半ばのやもめの義父は、娘ほどにも歳の離れたお久という女を妾としている。その日もお久は、凝った料理をお重につめてのお供である。要は、このお久に、文楽の人形、たとえば小春の面影をみる。

     

    「梅幸や福助のはいくら巧くても『梅幸だな』『福助だな』と云う気がするのに、この小春は純粋に小春以外の何者でもない。俳優のような表情のないのが物足りないと云えば云うものの、思うに昔の遊里の女は芝居でやるような著しい喜怒哀楽を色に出しはしなかったであろう。……昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎み深い女であったのに違いない……」

     

    お久は、老人の要望に応えて料理をつくり、習い事に励んでいる。三味線に地唄。手塩にかけた日本料理といい、身だしなみといい、まさに江戸文化を体現する存在である。ある意味で、文楽の人形、老人に巧みに操られているとはいうものの、「昔の人の理想とする美人」に他ならない。そのようなお久に、要はひそかに惹かれていくのだが。

     

    いっぽう、妻の美佐子は、お久とは対照的な女である。自分の意見をはっきりと言い、趣味も洋風。彼女はお久を常に無視するのだが、次のように思っている。「父もうっとうしいけれども、それよりお久がいやであった。京都生れの、おっとりとした、何を云われても『へいへい』云っている魂のないような女」と。

     

    さて要は、子どものことや世間体もあり、なかなか踏み切れないのだが、美佐子と別れようとしている。その、あまりに現代的な性格ゆえか、というと、必ずしもそうではない。美佐子は、夫が外出のときなど、文句がないほど細やかに衣服を整えたりする。妻の役割はキチンと果たしているのだ。それではなぜ別れなくてはならないのか。これはまた明確で、性的な不一致である。

     

    ふたりの間には、夫婦の営みが絶えて久しい。そして美佐子には外に恋人がいる。その事実を、要は容認している。自分たちの関係性からみて、妻の浮気は当然だと要は考えているのである。美佐子は美佐子で、現状に甘んじるところがあり、それゆえに、ふたりとも、離婚に踏み切れない。従弟の高夏を交えた、この、夫婦の煮え切らないリアルな生活描写も見事。

     

    ついに離婚を決意したふたりは、美佐子の父親に報告にいく。ここでの老人の言葉もなかなか説得力がある。「性が合わなければ合わないでいい、長い間には合うようになる。お久なんかも私とは歳が違うんで、決して合う訳はないんだが、一緒にいれば自然情愛も出て来るし、そうしているうちには何とかなる、それが夫婦と云うものだと考える訳には行かんものかね」。現代の夫婦も、その多くがこの言葉に説得されているような気がしないでもない。

     

    「要さん、とにかくなんにも云わないで、私に美佐子を二三時間預けては下さるまいか」と老人は言い、近くの料理屋に娘を連れていく。小説はここで終わる。老人の説得は成功したのか、しなかったのか。結論は書かれていない。読者に委ねられているのだ。ここも上手い。読者は考えざるをえない。

     

    この小説が書かれたのは1929年。昭和4年である。大正デモクラシーの影響もあったのか、すでに美佐子のような新しい女が出現していたのだろう。谷崎はその新しさを認めながらも、文楽に象徴される日本の古い芸術に心を動かされていた。この小説は、文化に対する谷崎の心の葛藤を描いているといえなくもない。映像的な描写力は、もちろん第一級である。

     

    2020年1月28日 j.mosa

    楽しい映画と美しいオペラ――その90

    • 2020.01.04 Saturday
    • 14:34

    また笑って泣いてしまった——『男はつらいよ お帰り寅さん』

     


    『男はつらいよ お帰り寅さん』ははじめから涙だった。歳とったさくらと博が柴又の団子屋にいる。背景に、50年前、つまり『男はつらいよ』第1作の彼らの姿が映し出される。涙は、懐かしさからだったのか、あるいは、歳月の残酷さを思ったからだったのか。そのどちらでもないような気がする。では、何に対して泣いていたのだろう。

     

    第1作が公開されたのは1969年。さくら、つまり倍賞千恵子は当時28歳。20歳にしかみえない。なんと初々しい。私は22歳の大学生だった。それからシリーズの最終作、第49作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』の1997年まで、その約30年間を、寅さんやさくらたちとともに歩んできたような気がする。さらに20年の歳月が流れて50年、はるかに遠くにきたのものだと思う。涙はこの感慨だったのだろうか。

     

    八千草薫、吉永小百合、若尾文子、大原麗子、太地喜和子、松坂慶子、田中裕子、などなど、往年の美しい女優がフラッシュバックされる。寅さんは自らを省みることなく彼女たちに恋をしたわけだが、よくもこれだけの女優が出演したものだと思う。しかもそのいちばん美しい盛りに。京マチ子などすでに50歳を過ぎていたとはいえ、その成熟した美しさは、若いころとはまた別格の深い味わいがあった。

     

    第1作から50年を記念する今年、山田監督は、49作をつなぐ回顧作品をつくろうとまずは考えたらしい。しかし断片的につなぐだけでは面白くない。さくら(倍賞千恵子)も博(前田吟)も健在だし、満男(吉岡秀隆)も活躍している。泉(後藤久美子)もヨーロッパにいるではないか。彼らの心のなかには、もちろん寅さん(渥美清)がいることだろう。ということで、『男はつらいよ』の第50作目が誕生したということだ。

     

    主役4人ばかりではなく、シリーズ最強のマドンナ、リリー(浅丘ルリ子)は現役のバーのマダムであるし、隣の印刷屋の娘あけみ(美保純)は、瞬間湯沸かし器のタコ社長そっくりに成長している。他にも、老いた寺男源公(佐藤蛾次郎)もいるし、三平(北山雅康)はいまも団子屋で働いている。みんな、みんな、懐かしい。

     

    しかしながらこの映画は、単なる回顧作品に終わってはいない。やっと処女作品を刊行したばかりの満男は、6年前に妻に先立たれ、中学3年の娘とのふたり暮らしである。作家という仕事にいまひとつ自信がもてないし、周囲から勧められる再婚にも乗り気ではない。50歳ちかくになって、別の生活を営んできた女性と時空間を共にする自信などないのだ。確かに、3度も4度も結婚を繰り返す人たちの心境は、想像すらできないではないか。

     

    泉を母親(夏木マリ)とともに捨てた父親(橋爪功)が、施設で孤独に死を迎えようとしている。「この人と私はもう赤の他人。でも子どもである貴女とは血がつながった親子」と主張する母親の言は、勝手ながら筋が通っていなくもない。しかし女をつくって家を出た父親を、泉ははたして赦すことができるのか。この映画は、人と人とが理解しあうことの困難さ、赦すことの難しさを、リアルに表現しているのだ。

     

    にもかかわらず、人は生き続けねばならない。回想の若き満男は、寅さんに問う、人間の生きる意味は何か、と。「毎日生きているとさ、時々、ああ生まれてきてよかったなあって思うことがあるじゃあねえか。そのために生きているんじゃあねえかな」。確かに、寅さんの映画を観て笑っていると、生まれてきてよかったなあ、と思うことがある。この50作目の『男はつらいよ』も、そんな映画であった。

     

    2019年12月23日 於いて丸の内ピカデリー

     

    2019年日本映画
    監督・原作:山田洋二
    脚本:山田洋二、朝原雄三
    音楽:山本直純、山本純ノ介
    出演:渥美清、倍賞千恵子、前田吟、吉岡秀隆、後藤久美子、浅丘ルリ子、夏木マリ、池脇千鶴、美保純、橋爪功、佐藤蛾次郎、北山雅康、カンニング竹山、小林稔侍、笹野高史、立川志らく

     

    2019年12月25日 j.mosa

    楽しい映画と美しいオペラ――その89

    • 2019.12.02 Monday
    • 20:59

    愉悦に満ちたオペラのよう——92歳ブロムシュテットの『ハ短調ミサ』

     


    ヘルベルト・ブロムシュテット。スウェーデンの指揮者で当年92歳。彼の指揮するモーツァルトの『ハ短調ミサ』を聴いて、円熟とはなんだろうと考えた。若々しいリズム、しなやかなフレージング、なによりも美しい歌が溢れている。それは、円熟とはほど遠い音楽だった。まるで、愉悦にみちたオペラを聴くよう。

     

    そもそも、歳を重ねることで、円熟に近づくと考えることが間違っているのではないか。馬齢を重ねている私も、体力は落ちているし、記憶力もおぼつかない。しかし、食欲などそれほど減退することはないし、エロスへの憧れもそれなりに健在である。好奇心も旺盛。若いころに想像していた老人像とのあまりの違いに、我ながら愕然とする。

     

    ものごとを沈着冷静に受け止め、豊かな経験に基づいて確かな判断をくだす。怒ること少なく、争いは避け、和すことを尊ぶ。生なかなことでは動揺することもないし、発する言葉も重厚。およそこんな老人がいるのだろうか。

     

    いぶし銀のような音楽と表現されることがある。それがどのようなものなのかはよく分からないが、たとえばブルーノ・ワルターの最晩年のマーラーは、青春の憧れと苦悩に満ちている(1961年録音の『交響曲第1番〈巨人〉』のLPは中学時代に買った私の宝物)。円熟の音楽なんて、きっとつまらないものにちがいない。

     

    さて、当夜のブロムシュテット。ふたりの素晴らしいソプラノを得て、私がかつて聴いたどの『ハ短調ミサ』をも凌駕するものだった。ソプラノが重唱する「Domine 神なる主」。絶妙にからまるふたりの美声が、最上階の席(1500円の自由席!)の私に柔らかく、しかし明瞭に届けられる。神への賛美とエロスが一体となる音楽。恍惚の感におそわれる。隣のおじさんも身を乗り出している。

     

    「Et incarnates est 精霊によりて」はいつ聴いても心を揺すぶられる。ザルツブルクへの帰郷の際、妻のコンスタンツェも歌ったというが、モーツァルトの幸福感にあふれた歌である。オペラの数々のアリアを含めても、1、2を争う名曲だ。ブロムシュテットは、ソプラノの自由度を尊重して、深々と美しいメロディを奏でた。

     

    終演後、聴衆の拍手が鳴りやまない。舞台からオケのメンバーが去り、合唱のメンバーが去っても拍手が続く。その誰もいない舞台に、ブロムシュテットはひとり立って、聴衆に満面の笑みを振りまいた。

     

    2019年11月23日 NHKホール
    モーツァルト
    交響曲第36番ハ長調K.425〈リンツ〉
    ミサ曲ハ短調K.427
    指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット
    ソプラノ(1):クリスティーナ・ランツハマー
    ソプラノ(2):アンナ・ルチア・リヒター
    テノール:ティルマン・リヒディ
    バリトン:甲斐栄次郎
    合唱:新国立劇場合唱団
    管弦楽:NHK交響楽団

     

    2019年11月25日 j.mosa

    楽しい映画と美しいオペラ――その88

    • 2019.11.04 Monday
    • 19:13

    安楽死を考える——映画『君がくれたグッドライフ』とNHKスペシャル『彼女は安楽死を選んだ』

     


    仲間が集まり、年に一度の自転車旅行に出かけようとしている。行く先はベルギー。誰かが「今回はどうしてベルギー?」と問いかける。まあベルギーにもいい所はあるさ、と気軽な旅がはじまる。しかしながらこの旅は、途中から思わぬ展開をみせる。それは、旅の目的地ベルギーに関わっていた。

     

    ベルギーは、世界でも稀な、安楽死を認めている国である。今回の旅を企画したハンネスは、安楽死の目的で、行く先をベルギーに選んだのだった。彼は36歳、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患っていて、残り少ない余命となっていた。仲間は旅の途中でその事実を知り、動揺する。とりわけハンネスの弟は激しく反対する。結局は自転車の旅は続けられて、仲間6人すべてがベルギーに到着することになるのだが。

     

    ハンネスが安楽死を決断するまでには、さまざまな出来事があったはずである。彼の死生観、それは宗教観や哲学ともかかわっていたはずだし、家族とは数知れない会話を交わしたに違いない。ところがこの映画は、その背景を一切省略している。妻は旅の仲間のひとりとして、母親は安楽死に立ち会うひとりとして映画には登場するが、ハンネスの決断にどう関わったかは語られることはない。この映画は、安楽死という非日常的なテーマを扱っていながら、それを徹底的に日常のものとして表現しているのだ。

     

    死をも自己決定の権利としたい、この考えが安楽死の背景にはある。ハンネスは、少なくとも仲間と自転車旅行ができる段階で死にたいと思った。これからあとの車椅子での生活、ベッドの上での身動きもままならない生活、少なくとも彼は、そんな状態になる前に、仲間に見送られて死にたいと考えたのだった。

     

    この映画を観た1週間後の深夜、NHKで安楽死を追ったドキュメンタリーが放映された。これは、安楽死の決断までをも追跡した内容で、死とはなにか、さらには生きるとはなにかを、深く考えさせられた。

     

    多系統萎縮症を病んだ51歳の女性は、スイスでの安楽死を計画している。彼女はすでに車椅子の生活で、話すことにも困難を抱えている。身体の痛みも激しい。その入院生活をふたりの姉が支えている。「いまはまだ有難うと表現できるけれど、それさえも言えない状態は耐えがたい」と言う。ソウル大学を出て、通訳などで活躍してきた彼女にとって、なにもできずに天井を見上げたままの生活は考えられなかったに違いない。

     

    自殺未遂を繰り返したあげく、スイスでなら安楽死ができるという情報を得る。ふたりの姉は戸惑うが、彼女の意思の堅さには従う他はない。飛行機の旅に耐えられるギリギリの状態でスイスに飛び、彼女は姉たちに看取られて、安楽死をとげたのだった。眠るような安らかな死。観ている私も、死の恐怖から解放される。

     

    彼女も、映画のハンネスと同様、自らの意思が明確に示せる段階で、安らかに死にたいと願った。彼らにとって、それが人間の尊厳ということだったに違いない。一方、NHKのドキュメンタリーでは、同じ病に苦しむもうひとりの女性をも追っている。呼吸器をつけられ、胃に管を通されて、意思表示はまばたきでしかできない。母親と娘が看病している。

     

    ところで、どこの国が安楽死を認めているのか。調べてみると、ベルギー、スイスのほか、オランダ、ルクセンブルク、カナダの5か国である。2001年に承認したオランダが一番歴史は古いが、2017年現在、安楽死は全死亡者の4.4%を占めるという。今後さらに増えるということだ。死に方の選択肢が増えたという意味でも、これはいい傾向だと考える。

     

    私は自らの判断力を失った状態で生きていたいとは思わない。認められるものなら、安楽死をしたいと願う。しかし、愛する人には、たとえ脳死状態であっても生き続けてほしいと思う。この矛盾はいったいなんだろう。人はひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。だが死は、必ずしも個人のものではないのではないか。家族や友人など、死は人間関係のなかにあるのだろうか。

     

    NHKドキュメンタリーの最後で、まばたきでしか意思表示のできない女性が、咲き誇る桜を観て涙を流す。母親と娘はそれを見て、「桜を観て泣いているよ」と明るく笑うのだった。

     

    2019年10月19日 於いて風行社

     

    『君がくれたグッドライフ』
    2014年ドイツ映画
    監督:クリスティアン・チューベルト
    脚本:アリアーネ・シュレーダー、クリスティアン・チューベルト
    出演:フロリアン・ダーヴィト・フィッツ、ユリア・コーシッツ、ユルゲン・フォーゲル、フォルカー・ブルッフ、ヴィクトリア・マイヤー、ヨハネス・アルマイヤー

     

    NHKスペシャル『彼女は安楽死を選んだ』
    2019年10月25日再放送(初回は6月2日)

     

    2019年10月28日 j.mosa

    楽しい映画と美しいオペラ――その87

    • 2019.08.06 Tuesday
    • 18:19

    家政婦クレオが守った「家」——アルフォンソ・キュアロン『ROMA/ローマ』

     


    幼少期のことを思い出すことがある。小川で魚を釣ったこと。昆虫採集で野山を駆け回ったこと。5月の浜辺で潮干狩りをやったこと。これらの光景は、すべてモノクロームである。灰色、あるいは、セピア色。この映画『ROMA/ローマ』が、全編懐かしいモノクロームなのは、監督キュアロンの幼少期の思い出と関わっている。彼の人格を形づくったもの、その根源が幼少期にあることをこの映画は物語っている。

     

    舞台は1970年代初頭のメキシコ。ローマとは、メキシコシティー近くのコロニア・ローマ地区のことである。医者という中産階級の家庭。夫妻には4人の子どもと母親があり、家政婦が2人いて、運転手もいる。一番幼い、気の弱そうな男の子が、おそらくキュアロンだと思われる。

     

    映画は、若い家政婦クレオの目を通して描かれている。彼女は、食事の支度から掃除、洗濯と、いわば家政婦の仕事全般をこなす。家族団欒の席にも同席するなど、あたかも家族の一員のようでもある。階級意識の比較的薄い家族であるようだ。

     

    幸せそうな家庭の、平凡な日常。小さなほころびが見え隠れするものの、それが家族の平和を壊すほどのことはない。映画を観るものの多くの家庭がそうであるように。そして、小さなほころびが成長して、やがて家族の平和を脅かす。家族は平静を装い、日常を保とうとするのだが。

     

    この映画の優れたところは、誰もが経験する家族の日常の揺れを、冷静に、坦々と、ある意味で冷酷に描いている点にある。それは、家族の一員であり、また、一員ではありえない、家政婦がとりえた、特異な視点といえよう。

     

    夫は学会のための出張と称して、家に帰ることがない。妻の惑乱。子どもたちに不安は伝染する。子どもが育つ環境には平穏が必要である。母親はその暖かさを与えることができない。

     

    冒頭に掲げたチラシには、この映画のある場面が切りとられている。クレオを中心にして、家族のすべてが寄り添っているこの画像こそが、この映画に託した監督キュアロンの思いを明確に伝えている。キュアロンは、いや彼ばかりではなくこの家の子どもたちは、クレオの愛によって育てられた。

     

    クレオの愛はどこから来るのか。何に根ざしているのか。恋人に裏切られ、望まない妊娠をし、死産に至る悲劇は細かに描かれているものの、クレオの情の深さの根源をついに私たちは知ることはできない。

     

    そして、この家の誰も、クレオの実像を知らないのだ。いつ、どこで生まれたのか。兄弟は何人いて、父母は健在なのか。そんな家政婦に救われたこの家の人たち。キュアロンの複雑な思いは、映画に深い陰影を生み出した。

     

    この映画は、社会性を帯びた、一映画監督の自伝でありながら、美しい一編の詩に昇華されている。第75回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第91回アカデミー賞で監督賞、撮影賞、外国語作品賞を受賞した。

     

    2019年5月7日 於いてUPLINK吉祥寺

     

    2018年メキシコ・アメリカ映画
    監督:アルフォンソ・キュアロン
    脚本:アルフォンソ・キュアロン
    出演:ヤリッツァ・アパリシオ、マリーナ・デ・タビラ
    撮影:アルフォンソ・キュアロン 

     

    2019年8月3日 j.mosa 

    楽しい映画と美しいオペラ――その86

    • 2019.04.07 Sunday
    • 20:52

    古典芸能継承の光と陰————狂言を伝える『よあけの焚き火』

     

     

    日本ほど古典芸能が、原初の形で残っている国は珍しいという。能・狂言はその典型だろうし、これらを専門に上演する国立の劇場も存在する。毎月4、5演目は上演され、チケットを取るのもきわめて困難である。国立能楽堂以外でも、観世流をはじめとする主要五流派の劇場でも盛んに上演が行われている。つまり、能・狂言は、現代に生活する人たちのあいだに、いまだに生き生きと根づいているということだ。

     

    どうしてこのようなことが可能となったのか。その理由を問う能力はとても私にはない。室町時代にまで遡る膨大な歴史的知識が必要だろうし、邦楽に関する音楽的知識も欠かせない。しかしながら、映画『よあけの焚き火』を観ることで、その現代的生命力をかすかながら体得できたような気がする。伝承とは、とてつもない危険を伴うということも。

     

    映画は、現代の能・狂言の世界で活躍する大藏基誠(おおくらもとなり)と、その10歳の息子康誠(やすなり)を主役として、伝統芸能がいかにして若い世代に伝承されるか、をテーマとしている。ドキュメンタリーではなく、フィクションも含まれていると明言されているが、芸の伝承の部分は事実を反映していると解釈する。そうでなければ、この映画の意味はないのだから。

     

    ピアノやヴァイオリンもそうなのだが、芸の世界では、幼児からの教育が欠かせない。芸が、空気のように体に染み込む必要があるのだ。NHKの「ライフ」というコント番組で、内村光良と市川猿之助が一緒に踊る場面があったのだが、身のこなしに歴然と差がある。しなやかさが違う。内村がいかに才人であっても、この差はいかんともしがたい。

     

    基誠は、厳冬期に、康誠を伴って蓼科の別荘に赴く。ふたりだけで生活することで、芸を息子に叩き込もうというわけだ。味噌汁を味わいながら、その行為がそのまま狂言の作品の世界となる。「うもうてたまらん」「なかなか」。漫才のような掛け合いを演じる。雪のなかの遊びも、教育の手段に使われる。着物をつけた正規の稽古の厳しさは並ではない。父親の存在は絶対であり、息子はただただ父親に従う。

     

    このような厳しいお家芸のなかでないと、芸は伝えられないのか。連綿と続く「家」の存在。身分制の厳しい江戸時代では、生まれ落ちた家によって一生が決まった。職人であれ農民であれ、父親の技を受け継ぐしかなかったのだ。親の背中を見て子は育つ。教育の原点であろう。しかし時代は変化した。技を受け継ごうにも、父親の背中はない。教育の困難さをいわれる所以である。古典芸能の世界では「家」は厳然として存在する。父親は迷いもなく教育ができるのだ。

     

    「天皇に人権は存在するか」。改元問題がかまびすしいいま、こんな問いも投げかけられている。天皇家に生まれた天皇に、天皇を離脱する権利は存在するのか、という問いである。もちろん、天皇家と大藏家を同一には論じられない。しかし、自らの人生を自らが選ぶ、という人権の観点からふたつの「家」を眺めると、共通の問題点が立ち現れる。大藏家には当然のことながら離脱の権利はある。だが、幼児期から有無をいわせぬ教育を施される子どもたちに、はたしてその権利を行使する力が残されるものなのか。

     

    『よあけの焚き火』は、美しい冬の蓼科を背景に、親と子が繰り広げる、厳しくも温かい伝統芸能継承の映画であった。そして、芸術とはなにか、人間とはなにか、という根源的な問いを投げかけてくれる映画でもあった。主役の大藏基誠さん、康誠さんには、これから立ちはだかるであろう困難を乗り超え、豊かな狂言の世界を築き上げていってもらいたいと切に願う。

     

    2019年3月27日 於いてポレポレ東中野

     

    2018年日本映画
    プロデューサー:村山憲太郎
    監督・脚本・編集:土井康一
    撮影:丸池納
    音楽:坂田学
    出演:大藏基誠、大藏康誠、鎌田らい樹、坂田明

     

    2019年4月3日 j.mosa

    楽しい映画と美しいオペラ――その85

    • 2019.03.06 Wednesday
    • 12:01

    歌と踊り、そして政治と宗教——インド映画『バジュランギおじさんと、小さな迷子』

     

     

    歌あり、踊りあり、笑いあり、美談あり。とかく楽しいインド映画。この通俗的な流れで鑑賞しても、楽しめることは請け合いである。歌と踊りの迫力は、『ボヘミアン・ラプソディ』と比べても遜色はない。高性能のスピーカーを備えた映画館で鑑賞すれば、座席が揺れるほどの音響を体験できるはず。アップリンク渋谷の小さな会場でさえ、その迫力が堪能できた。

     

    この映画のスゴイところは、そんな典型的な娯楽作品に、いくつもの哲学的・政治的なメッセージが盛りこまれている点にある。それも、高尚な態度は微塵もなく、まったく自然な形で表現されている。観るものは、物語の展開の面白さにわくわくしているうちに、心のなかに、いささかの疑問や憤りを覚えるようになる。ここに、監督の巧みな腕を感じざるをえないのだ。技を技と感じさせないのは名作の条件である。

     

    バジュランギおじさんは、小さな迷子の手をとって、インドとパキスタンの国境を越えようとする。彼女を家に送り届けるためである。雪に覆われたカシミールの高地に延々と連なる鉄条網の国境。「愛」を拒む冷徹な政治の象徴としてこれ以上のものはない。トランプの愚かさも想起させる。1947年、ジンナーがイスラーム教徒を引き連れてパキスタンを建国し、この国境を設定したのだ。民族統一を志していたガンジーは、さぞや無念であったことだろう。

     

    バジュランギおじさんは熱心なヒンドゥー教徒で、ハヌマーン神を崇拝している。小さな迷子は、イスラーム教徒でパキスタン人。ふたつの宗教は、ともに天をいただかずというほど敵対している。おじさんは、当然のことながら、けっしてモスクには足を踏み入れようとはしない。しかしながら、ふたりで決死行をともにするうち、ハヌマーン神とアッラーの神は共存することになる。このへんの描き方も自然でじつにいい。人間の力が及ばない事態では、人は祈らざるをえない。その対象が、民族、時代、環境などで異なるだけだ、ということがよく理解される。

     

    ふたりの決死行に途中から加わるのが、フリーのジャーナリスト。彼によって、物語に奥行きとふくらみが生まれた。彼は、ふたりの決死行の真実を伝えようと、その映像をテレビ局に提供しようとする。しかし、どの局も取り扱ってくれない。「愛」がテーマでは視聴率がとれないというわけだ。ひたすら刺激を求める映像ジャーナリズムは、どこの国でも同じらしい。ユーチューブに投稿することで事態が進展する。新しいメディアの可能性に、なるほどと思う。

     

    小さな迷子を演じるハルシャーリー・マルホートラは、5000人のオーディションから選ばれたらしい。表情豊かでかわいらしく、こんな子が迷子になっていたら、誰でも身を投げうって世話をするだろう。それと、カシミール地方の自然描写など、映像の美しさも特筆ものだ。

     

    2019年2月17日 於いてアップリンク渋谷

     

    2015年インド映画
    監督:カビール・カーン
    脚本:カビール・カーン、パルヴェーズ・シーク、K・V・ヴィジャエーンドラ・プラサード、カウサル・ムニール
    原案:K・V・ヴィジャエーンドラ・プラサード
    音楽:プリータム、ジュリアス・パッキャム
    撮影:アシーム・ミシュラ
    編集:ラメシュワール・S・バーガット
    出演者:サルマン・カーン、ハルシャーリー・マルホートラ、ナワーズッディーン・シッディーキー、カリーナ・カプール

     

    2019年2月18日 j.mosa

    楽しい映画と美しいオペラ――その84

    • 2019.02.22 Friday
    • 14:22

    高雅きわまるカウンターテナー
    ——ヴァレア・サバドゥス&コンチェルト・ケルン

     


    思いもかけず素晴らしいカウンターテナーに遭遇した。久しぶりに古楽のアンサンブルが聴きたくて、コンチェルト・ケルンのチケットを買ったのだったが、共演したのが、ヴァレア・サバドゥス。聞いたこともない名前で、ああ今日はカウンターテナーも出演するのかと、軽い気持ちで演奏会を聴きはじめた。

     

    最初の曲がヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」。いままで一体、何人の歌手の歌声で、この有名なアリアを聴いてきたことだろう。本来はカストラートのアリアだが、いまは主にソプラノが歌う。アリア集が編まれると、まずはこの曲が選ばれるほどの有名曲だ。そして、かつて聴いた誰よりも、サバドゥスは素晴らしかった!

     

    「オンブラ・マイ・フ」は、オペラ『セルセ』の冒頭で歌われるアリアで、主人公のセルセ(クセルクセス1世)がプラタナスの樹に語りかける、伸びやかで抒情的な曲である。サバドゥスの高声は、優美な旋律線に乗って、まるで天空に溶けゆくよう。ビロードのような円やかな声は、このアリアにこそふさわしい。思い浮かべるどのソプラノの声をも軽やかに超えゆくサバドゥスは、衝撃そのもの。

     

    さらに驚かされたのは、2曲目のジャコメッリ作曲のアリア「愛、義務、尊敬」(『シリアのアドリアーノ』より)。これは「オンブラ・マイ・フ」とは打って変わって、劇的で、超絶技巧を要するアリアである。優美な声はそのままで、高声から低声へ、弱音から強音へ、アジリタ(装飾歌唱)もたっぷり入って、その巧みさには舌を巻いた。これほど自在に声を操ることができれば、歌うことはさぞや楽しかろうと、たまにカラオケで歌う私は、羨望の思いしきりであった。


    休憩時間、私は慌ててプログラムを買いに行った。同じ思いの人も多かったのだろう、あやうくプログラムは売り切れそうだった。当日の演奏会のテーマは「Caro Gemello 親しい二人」。18世紀に活躍したカストラートのファリネッリと台本作家メタスタージオに捧げられている。ヘンデルのアリア以外はすべてファリネッリのために作曲された曲だそうだ。超絶技巧が駆使されているはずである。

     

    とはいえ、カルダーラの「私はその善き羊飼い」(『アベルの死』より)は、抒情性豊かな、心に染み入る名曲である。サバドゥスの、しっとりした、情感豊かな歌声に、思わず涙する。ポルポラのふたつのアリア「至高のジョーヴェ」「聞け、運命よ」(ともに『ポリフェーモ』より)で締めくくられたが、優美と華麗と対照的なふたつの曲は、サバドゥスの実力を示すにはまたとない曲。難曲をいとも軽々と歌いきる技巧の確かさを、いやというほど認識させられた。3曲のアンコールのあと、大勢の観客がスタンディングオベーションを捧げた。日本では珍しいことだ。

     

    幸せな気分で帰宅途中、私は、はるか昔、1992年に、偶然チェチーリア・バルトリを聴いた日のことを思い出していた。彼女は当時まだ26歳! 急病のフレデリカ・フォン・シュターデの代役で出演したのだが、日本では無名のメゾソプラノの、圧倒的な歌唱力に驚倒したものだ。その後のバルトリの活躍を思うと、サバドゥスのこれからも楽しみでならない。

     

    ヴァレア・サバドゥスは、1986年ルーマニア生まれ。ドイツ育ち。コンチェルト・ケルンのコンサートミストレス平崎真弓とは学生寮が一緒だったらしい。息の合った共演にうなずかされる。


    2019年2月11日 武蔵野市民文化会館小ホール
    曲目
    ダッラーバコ:合奏協奏曲 ニ長調 Op.5-6 
    ヘンデル:アリア「オンブラ・マイ・フ」(歌劇『セルセ』HWV40/セルセ) 
    ジャコメッリ:アリア「愛、義務、尊敬」(歌劇『シリアのアドリアーノ』/ファルナスペ)  
    ヴィヴァルディ:協奏曲 イ長調 RV158 
    ヘンデル:アリア「愛する花嫁よ」、「風よ、旋風よ」(歌劇『リナルド』HWV7/リナルド) 
    ヘンデル:シンフォニア「シバの女王の到着」(オラトリオ『ソロモン』 HWV67) 
    カルダーラ:シンフォニア へ短調(オラトリオ『アベルの死』) 
    カルダーラ:アリア「私はその善き羊飼い」(オラトリオ『アベルの死』/アベル)) 
    ポルポラ:アリア「哀れみは消え去り」(歌劇『アンジェリカ』/ティルシ) 
    ヴィヴァルディ:2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 Op.3-11 『調和の霊感』より 
    ポルポラ:アリア「至高のジョーヴェ(ジュピター)」、「おお、これが運命か」(歌劇『ポリフェーモ』/アーチ)

     

    カウンターテナー:ヴァレア・サバドゥス
    管弦楽:コンチェルト・ケルン

     

    2019年2月13日 j.mosa

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