一般財団法人 知と文明のフォーラム

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楽しい映画と美しいオペラ――その85

歌と踊り、そして政治と宗教——インド映画『バジュランギおじさんと、小さな迷子』

 

 

歌あり、踊りあり、笑いあり、美談あり。とかく楽しいインド映画。この通俗的な流れで鑑賞しても、楽しめることは請け合いである。歌と踊りの迫力は、『ボヘミアン・ラプソディ』と比べても遜色はない。高性能のスピーカーを備えた映画館で鑑賞すれば、座席が揺れるほどの音響を体験できるはず。アップリンク渋谷の小さな会場でさえ、その迫力が堪能できた。

 

この映画のスゴイところは、そんな典型的な娯楽作品に、いくつもの哲学的・政治的なメッセージが盛りこまれている点にある。それも、高尚な態度は微塵もなく、まったく自然な形で表現されている。観るものは、物語の展開の面白さにわくわくしているうちに、心のなかに、いささかの疑問や憤りを覚えるようになる。ここに、監督の巧みな腕を感じざるをえないのだ。技を技と感じさせないのは名作の条件である。

 

バジュランギおじさんは、小さな迷子の手をとって、インドとパキスタンの国境を越えようとする。彼女を家に送り届けるためである。雪に覆われたカシミールの高地に延々と連なる鉄条網の国境。「愛」を拒む冷徹な政治の象徴としてこれ以上のものはない。トランプの愚かさも想起させる。1947年、ジンナーがイスラーム教徒を引き連れてパキスタンを建国し、この国境を設定したのだ。民族統一を志していたガンジーは、さぞや無念であったことだろう。

 

バジュランギおじさんは熱心なヒンドゥー教徒で、ハヌマーン神を崇拝している。小さな迷子は、イスラーム教徒でパキスタン人。ふたつの宗教は、ともに天をいただかずというほど敵対している。おじさんは、当然のことながら、けっしてモスクには足を踏み入れようとはしない。しかしながら、ふたりで決死行をともにするうち、ハヌマーン神とアッラーの神は共存することになる。このへんの描き方も自然でじつにいい。人間の力が及ばない事態では、人は祈らざるをえない。その対象が、民族、時代、環境などで異なるだけだ、ということがよく理解される。

 

ふたりの決死行に途中から加わるのが、フリーのジャーナリスト。彼によって、物語に奥行きとふくらみが生まれた。彼は、ふたりの決死行の真実を伝えようと、その映像をテレビ局に提供しようとする。しかし、どの局も取り扱ってくれない。「愛」がテーマでは視聴率がとれないというわけだ。ひたすら刺激を求める映像ジャーナリズムは、どこの国でも同じらしい。ユーチューブに投稿することで事態が進展する。新しいメディアの可能性に、なるほどと思う。

 

小さな迷子を演じるハルシャーリー・マルホートラは、5000人のオーディションから選ばれたらしい。表情豊かでかわいらしく、こんな子が迷子になっていたら、誰でも身を投げうって世話をするだろう。それと、カシミール地方の自然描写など、映像の美しさも特筆ものだ。

 

2019年2月17日 於いてアップリンク渋谷

 

2015年インド映画
監督:カビール・カーン
脚本:カビール・カーン、パルヴェーズ・シーク、K・V・ヴィジャエーンドラ・プラサード、カウサル・ムニール
原案:K・V・ヴィジャエーンドラ・プラサード
音楽:プリータム、ジュリアス・パッキャム
撮影:アシーム・ミシュラ
編集:ラメシュワール・S・バーガット
出演者:サルマン・カーン、ハルシャーリー・マルホートラ、ナワーズッディーン・シッディーキー、カリーナ・カプール

 

2019年2月18日 j.mosa


楽しい映画と美しいオペラ――その84

高雅きわまるカウンターテナー
——ヴァレア・サバドゥス&コンチェルト・ケルン

 


思いもかけず素晴らしいカウンターテナーに遭遇した。久しぶりに古楽のアンサンブルが聴きたくて、コンチェルト・ケルンのチケットを買ったのだったが、共演したのが、ヴァレア・サバドゥス。聞いたこともない名前で、ああ今日はカウンターテナーも出演するのかと、軽い気持ちで演奏会を聴きはじめた。

 

最初の曲がヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」。いままで一体、何人の歌手の歌声で、この有名なアリアを聴いてきたことだろう。本来はカストラートのアリアだが、いまは主にソプラノが歌う。アリア集が編まれると、まずはこの曲が選ばれるほどの有名曲だ。そして、かつて聴いた誰よりも、サバドゥスは素晴らしかった!

 

「オンブラ・マイ・フ」は、オペラ『セルセ』の冒頭で歌われるアリアで、主人公のセルセ(クセルクセス1世)がプラタナスの樹に語りかける、伸びやかで抒情的な曲である。サバドゥスの高声は、優美な旋律線に乗って、まるで天空に溶けゆくよう。ビロードのような円やかな声は、このアリアにこそふさわしい。思い浮かべるどのソプラノの声をも軽やかに超えゆくサバドゥスは、衝撃そのもの。

 

さらに驚かされたのは、2曲目のジャコメッリ作曲のアリア「愛、義務、尊敬」(『シリアのアドリアーノ』より)。これは「オンブラ・マイ・フ」とは打って変わって、劇的で、超絶技巧を要するアリアである。優美な声はそのままで、高声から低声へ、弱音から強音へ、アジリタ(装飾歌唱)もたっぷり入って、その巧みさには舌を巻いた。これほど自在に声を操ることができれば、歌うことはさぞや楽しかろうと、たまにカラオケで歌う私は、羨望の思いしきりであった。


休憩時間、私は慌ててプログラムを買いに行った。同じ思いの人も多かったのだろう、あやうくプログラムは売り切れそうだった。当日の演奏会のテーマは「Caro Gemello 親しい二人」。18世紀に活躍したカストラートのファリネッリと台本作家メタスタージオに捧げられている。ヘンデルのアリア以外はすべてファリネッリのために作曲された曲だそうだ。超絶技巧が駆使されているはずである。

 

とはいえ、カルダーラの「私はその善き羊飼い」(『アベルの死』より)は、抒情性豊かな、心に染み入る名曲である。サバドゥスの、しっとりした、情感豊かな歌声に、思わず涙する。ポルポラのふたつのアリア「至高のジョーヴェ」「聞け、運命よ」(ともに『ポリフェーモ』より)で締めくくられたが、優美と華麗と対照的なふたつの曲は、サバドゥスの実力を示すにはまたとない曲。難曲をいとも軽々と歌いきる技巧の確かさを、いやというほど認識させられた。3曲のアンコールのあと、大勢の観客がスタンディングオベーションを捧げた。日本では珍しいことだ。

 

幸せな気分で帰宅途中、私は、はるか昔、1992年に、偶然チェチーリア・バルトリを聴いた日のことを思い出していた。彼女は当時まだ26歳! 急病のフレデリカ・フォン・シュターデの代役で出演したのだが、日本では無名のメゾソプラノの、圧倒的な歌唱力に驚倒したものだ。その後のバルトリの活躍を思うと、サバドゥスのこれからも楽しみでならない。

 

ヴァレア・サバドゥスは、1986年ルーマニア生まれ。ドイツ育ち。コンチェルト・ケルンのコンサートミストレス平崎真弓とは学生寮が一緒だったらしい。息の合った共演にうなずかされる。


2019年2月11日 武蔵野市民文化会館小ホール
曲目
ダッラーバコ:合奏協奏曲 ニ長調 Op.5-6 
ヘンデル:アリア「オンブラ・マイ・フ」(歌劇『セルセ』HWV40/セルセ) 
ジャコメッリ:アリア「愛、義務、尊敬」(歌劇『シリアのアドリアーノ』/ファルナスペ)  
ヴィヴァルディ:協奏曲 イ長調 RV158 
ヘンデル:アリア「愛する花嫁よ」、「風よ、旋風よ」(歌劇『リナルド』HWV7/リナルド) 
ヘンデル:シンフォニア「シバの女王の到着」(オラトリオ『ソロモン』 HWV67) 
カルダーラ:シンフォニア へ短調(オラトリオ『アベルの死』) 
カルダーラ:アリア「私はその善き羊飼い」(オラトリオ『アベルの死』/アベル)) 
ポルポラ:アリア「哀れみは消え去り」(歌劇『アンジェリカ』/ティルシ) 
ヴィヴァルディ:2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 Op.3-11 『調和の霊感』より 
ポルポラ:アリア「至高のジョーヴェ(ジュピター)」、「おお、これが運命か」(歌劇『ポリフェーモ』/アーチ)

 

カウンターテナー:ヴァレア・サバドゥス
管弦楽:コンチェルト・ケルン

 

2019年2月13日 j.mosa


楽しい映画と美しいオペラ――その83

ジャンルを超えるロックミュージック——『ボヘミアン・ラプソディ』人気の源泉

 


昨年の映画の興行成績の第1位は『ボヘミアン・ラプソディ』だそうだ。クィーンの名前すら知らなかった私でさえ観た映画だから、第1位はうなずける。なによりも音楽が良かった。重唱の美しさに驚く。それにしても、ロックなどほとんど聴かない私が、なぜこの映画を観ることになったのか。

 

NHKラジオ「すっぴん」のアンカーである藤井彩子アナが、「最後の場面で泣きました」と報告したのが、もう3ヶ月も前。ちょっと気にはなっていた。それから3度も観たとまた先日ラジオで発言。そのときは夫である古今亭菊之丞と一緒だったらしい。そして高橋源一郎も、観ましたよと言う。彼は賢明にも、映画の感想は述べなかったのだが。

 

1月27日、新国立劇場で『タンホイザー』を観たあとのオペラ仲間との会食。私も観たという人が結構いて、ちょっとビックリ。しかも、映画の主人公フレディ・マーキュリーは、スペインの名歌手モンセラート・カバリエと共演しているという。うーん、これは観なければ、ということになったのだった。ちなみに当夜の『タンホイザー』は、合唱以外取り立てていうことはなし。罪深い男が聖なる女性に救われるというテーマも、『ファウスト』を経験している私たちには、すでに陳腐でしかない。

 

『ボヘミアン・ラプソディ』を、映画として優れているか、と問われれば、いささか疑問がないとはいえない。主人公のとらえ方に偏りがあり、フレディ・マーキュリーという人間がイマイチよく分からない。ゲイの側面を描きすぎて、奥行きを失ったのではないか。女の恋人との関係も曖昧なままである。不特定多数の恋人が彼の孤独を癒したはずはなく、彼の「愛」をもう少し深く追究すれば良かったのではないかと思う。

 

とはいえ、音楽の素晴らしさは、それらの欠点を補って余りある。物語の進展と音楽の間に齟齬が感じられない。ときどきのフレディの心情が、ロックの音楽に見事に結実している。ビートルズには少しも感情移入できなかった私だが、クィーンの音楽には心を動かされた。

 

フレディがピアノを弾きながら歌いはじめる『ボヘミアン・ラプソディ』は映画のハイライトだが、美しいハーモニーといい、抒情的なエレキギターといい、思いがけない展開をみせる曲の構成といい、すっかり魅せられてしまった。暖かな繭から出ざるをえない青年の、世界との闘い、傷つき、逃走し、そして……。この曲には、まさしく彼らの魂の叫びが宿っている。6分間の短い曲が、ときには3時間のオペラに勝ることがある。

 

音楽に垣根はないなぁ、と実感したのは、とにかく大きな収穫であった。

 

2019年1月29日 於いてTOHOシネマズ錦糸町

 

2018年イギリス・アメリカ映画
監督:ブライアン・シンガー
脚本:アンソニー・マクカーテン
撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル
音楽:ブライアン・メイ、ロジャー・テイラー
出演:ラミ・マレック、ルーシー・ボイントン、グウィリム・リー、ベン・ハーディ、ジョゼフ・マゼロ、エイダン・ギレン、トム・ホランダー、アレン・リーチ、マイク・マイヤーズ

 

2019年2月6日 j.mosa


楽しい映画と美しいオペラ――その82

ヴェルディの「新しい喜劇」——カルロ・リッツィ指揮『ファルスタッフ』

 


構築的で硬質な、ヴェルディ特有のオーケストラが会場に響きわたる。最初の音を聴いただけで、これは! と思う。緩急自在で重厚、さらに響きに奥行きが感じられる。それからの展開は、まったく期待を裏切らない。ああ、この音楽が、ヴェルディが到達した「劇音楽」なのだと、改めて彼の偉大さを実感する。歌手の声を聴くまでもなく、オーケストラが雄弁に物語を語っているのだ。いままで、CDで、ビデオで、もちろん劇場で、何度も『ファルスタッフ』は聴いているのだが、当日のカルロ・リッツィの指揮で、はじめてその本質を認識させられたように思う。

 

いうまでもなく、『ファルスタッフ』はヴェルディが創作した最後のオペラである。前作『オテッロ』から6年、しかも年齢はすでに79歳。功なり名をとげ、故郷近くの広大な土地に大邸宅も構えている。創作の苦しみを味わう環境であったはずはない。アッリーゴ・ボーイト(作曲家・台本作家)の巧みな勧めがあったとはいえ、なぜ彼はあえて作曲の筆をとったのだろう。その答えが、当夜の公演で少し理解できたような気がする。

 

モーツァルトの『フィガロの結婚』といい、ロッシーニの『セビリアの理髪師』といい、彼らの喜劇は音楽そのものが軽やかである。悲劇ばかりを27作つくったヴェルディの喜劇が、軽やかであろうはずはない(厳密にいうと、失敗に終わった『一日だけの王様』という喜劇が1作だけあり、彼がつくったオペラは合計28作)。音楽はやはり重厚といわざるをえない。しかし、そのなかに、おかしみが滲み出ていて、いささかの軽快さも垣間見られる。ある意味で、まったく新しい喜劇が生まれたのだ。そしてそこに、ヴェルディは、自ら到達した人生観を明瞭に反映させた。

 

それにしても、男というものは愚かである。ファルスタッフは名誉にしがみつき、性的欲求を制御できない。フォードは世間体ばかりを気にして娘の心を理解できないし、嫉妬深い。ファルスタッフの二人の召使いも日和見主義が甚だしい。彼らに比べて、女性陣のなんと溌剌としていることか。ファルスタッフの欲望をそらし、娘に対するフォードの無理強いを軽やかに指弾する。その手段は、まずは連帯である。そして、男の俗物根性を見事に利用する。暴力や恐喝などというやぼな手段は用いない。

 

もちろん、ファルスタッフとてやられっぱなしというわけではない。女性たちにさんざんいじられながらも、愚かな自分がいるからこそこのお笑い劇が成り立つのだと、太鼓腹をかかえて高らかに歌う。自分やフォードは馬鹿者だが、自分たちもこの世の中には必要ではないか、という訳だ。妻と二人の娘を亡くした絶望からヴェルディの心が自由であったとは思われない。売れないどん底の時代も忘れたことはないだろう。そんなヴェルディであるからこそ、重厚でありながらも軽やかな、新しい喜劇をつくることができたのだと思う。「人生は冗談!」。このフィナーレの大フーガを書くために、ヴェルディはあえて老いの筆をとったのではないだろうか。

 

ジョナサン・ミラーの舞台は、シックで奥行きが深く、簡潔。光と影が美しい。エヴァ・メイのアリーチェを聴けたことも嬉しいことだった。気品があり、機知にも富んだアリーチェにぴったり。若いナンネッタとフェントンを演じた幸田浩子と村上公太の高音の美声にも拍手。総じて、指揮、演出、歌手の三拍子揃った名舞台だった。

 

2018年12月9日 新国立劇場

 

指揮:カルロ・リッツィ
演出:ジョナサン・ミラー

 

ファルスタッフ:ロベルト・デ・カンディア
アリーチェ:エヴァ・メイ
フォード:マッティア・オリヴィエーリ
クィックリー夫人:エンケレイダ・シュコーザ
ナンネッタ:幸田浩子
フェントン:村上公太
メグ:鳥木弥生
バルドルフォ:糸賀修平
ピスト—ラ:妻屋秀和
カイウス;青地英幸

 

東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団

 

2018年12月10日 j.mosa

 


楽しい映画と美しいオペラ――その81

「事件」となった上映会——70mm版『2001年宇宙の旅』

 

 

10月13日、京橋の国立映画アーカイブ(旧東京国立近代美術館フィルムセンター)に着いたのは朝7時過ぎ。ところが、館前にはすでに長蛇の列。なんと147番目だった。当日券の枚数は各回100枚(前売りが200枚)で、11時からの初回の上映会には入場することはできない。『2001年宇宙の旅』の70mm版上映の人気が高いとは聞いていたが、これほどとは!

 

今年はこの映画が制作されてから50年。それを記念して、オリジナルのネガからポジをつくり、世界各国での上映が実現している。デジタル処理は一切していないというから、当時のままの映像を観ることができる。この情報を耳にして、チケットぴあで前売り券を買おうと思った。

 

前売り券は9月1日の12時からの発売だったのだが、あっという間にすべての回(延べ12回)が売り切れてしまった。私も買えなかった。どうやら転売サイトが買い占めてしまったらしい。1枚2500円のチケットだが、オークションでは1万円を超えるものも出たという。悪質なサイトは締め出してもらいたいものだ。

 

3時間並んで、やっと10時に、15時開映の整理券をゲットした。近くのシネスイッチ銀座で『日日是好日』を観て時間をつぶす(失礼!)。日本の自然のなかにゆったりと樹木希林さんがいて、心地よい映画ではあった。初日だったからか、出口にはぴあの調査員がいて、映画の感想を聞き出している。65点と答える。

 

国立映画アーカイブのスクリーンは、大型映画館の標準的な大きさだろう。それが、手前にかなり湾曲している。70mm版の特色である。グラデーションの美しさや奥行きの深さが感じられるのは、アナログの強みではないか。音は多少の歪みがあるものの、大迫力。1968年当時のテアトル東京のスクリーンは、国立映画アーカイブのそれよりもさらに4倍の大きさだったというから、想像を絶する。

 

さて、北海道から観にきた人もあったという異常人気の70mm版『2001年宇宙の旅』。テレビ画面でしか観たことのない私にとって、これは事件といっていいほどの上映だった。400万年前の猿が空中に放り投げた一片の骨。暗転して、それが宇宙船に変換される。音楽は、『ツァラトゥストラかく語りき』から『美しく青きドナウ』へ。映像と音楽が、これほど見事にシンクロした映画を私は他に知らない。大画面に大音量。開始時点ですでに、私は満足の極みにあった。

 

50年前にはCGはまだ実用化していない。にもかかわらず、どうしてあのようなリアルな宇宙空間をつくり出せたのだろう。2013年のアカデミー賞監督賞をとった『ゼロ・グラビティ』は、宇宙描写の迫真性で専門家を驚かせた。『2001年宇宙の旅』は、それにけっして引けをとらない。不気味な漆黒の宇宙空間。その果てしない空間に吸い込まれる宇宙飛行士。また、飛行士が宇宙船のなかでジョギングするシーン。無重力のなかを螺旋状に走って、なるほどと、納得させられるが、どうして撮影したのだろうかと、これも不思議でならない。

 

革新性は映像に止まらない。コンピュータの声紋認識、チェスとの対戦、人間との会話など、AIの進歩した現在でこそ珍しくはないシーンだが、これは50年前の映画である。キューブリックと、共同脚本のアーサー・C・クラークの先見性には驚くほかはない。AIの錯乱まで予言しているのだ。赤い目玉のようなコンピュータ、HALの不気味さは、私たちの未来に対する警告でもある。それにしても、あの目玉は怖い。

 

黒い、大きな、壁のような物体——モノリス。人類の誕生期400万年前に地球に存在し、2001年の月にも存在する。地球外生命の実在を暗示する物体だが、一体モノリスとは何か。木星への飛行中に事故に遭遇した宇宙船の船長、ボーマンはその後どうなったのか。めくるめく色彩の最終シーンをどう解釈するか。難解度は増すばかりだが、最新の物理学、超弦理論で解釈はできないのだろうか、と、理数系にうとい私は勝手に想像する。

 

『2001年宇宙の旅』は、私にとって、SF映画中ダントツの1位である。さらに、すべての映画のなかでも、5本の指に数えられるのではないか、と改めて思った。

 

2018年10月13日 於いて国立映画アーカイブ

 

1968年アメリカ映画
監督:スタンリー・キューブリック
脚本:スタンリー・キューブリック、アーサー・C・クラーク
撮影:ジェフリー・アンスワース、ジョン・オルコット
出演:キア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド、ウィリアム・シルベスター、ダグラス・レイン

 

2018年10月21日 j.mosa


楽しい映画と美しいオペラ――その80

現代音楽は能に通じる!——三木容子 現代ピアノリサイタル

 


リサイタルの案内を受け取って、度肝を抜かれた。いまの日本のピアニストで、ほかにいったい誰が、このようなプログラムで一夜のコンサートを開くだろうか。よほど意識の高いピアニストでも、現代曲はプログラムの一部に置くにすぎない。ところが、9月11日の三木さんのリサイタルは、シェーンベルク、ウェーベルンを別にしたとして、他はすべてがバリバリの現代曲なのだ。

 

バッハやモーツァルトやシューベルトを愛する私は、日頃まず現代曲は聴かない。現代に生きていて、同時代の作曲家の作品を聴かないのは、あまり健康的なことではないと自覚してはいる。美術なら現代作家の作品をそれほど避けることはないのだが。聴覚は視覚に比して、保守的傾向が強いのではないか、と思うこともある。

 

そのような私であるゆえ、当夜のコンサートの批評など書けるわけはない。すべてがはじめて聴く曲であるし、ひとつひとつの作品を聴き分ける耳も持っていない。しかしながら、面白かった。芸術は美しくなければならない、という古い考えを持つ私からすれば、当夜の作品群は芸術を超えている。

 

では何が面白かったのか? それは、おそらく、日頃聴いている音とはまるで異なる音を体験したことによるのではないか。メロデイはどこを探してもないし、音は容易に繋がらない。しかし音は多彩だった。響きや音の広がりに身を委ねていれば、それはそれで面白いのだ。それと、間(ま)。音と音のあいだに断絶があり、それが緊張感をもたらす。

 

これはひょっとすると、能の音楽に通じるのか! と演奏の途中から考え出した。耳をつんざく能管の響き。突如として鳴り出す大鼓や小鼓。そしてもちろん、間の自在な使用。会場を覆う緊迫感。古典派やロマン派は能の音楽からは遠いけれど、現代音楽は近い。我ながら大発見である。

 

シェーンベルクは12音技法を創始して、音を階層性から解放した。彼の作品が入ることによって、現代音楽というものの性格がより明瞭になったように思う。とらえどころのない音の連なりながら、シェーンベルクの音は煌めいていた。わずかながら後期ロマンの香りもする。シェーンベルクがあんなに美しいとは!

 

最後の演目はまた度肝を抜かれるものだった。長いワイヤーをピアノの弦につないで、インドのシタールのような響きを出していたと思ったら、突如ボクシングのグローブを着けて鍵盤を叩き出した。何度も力いっぱい叩くものだから、ピアノが壊れるのではないかと心配するほど。三木さんは長年ボクシングジムに通っているようだが、その成果がようやく出たか! この曲が一柳作品とはまた驚く。

 

芸術は、面白くて、刺激的なものでもあるようだ。

 

ヴァイオリンは高木和弘。

 

2018年9月11日 東京文化会館小ホール
一柳慧:イン・メモリー・オヴ・ジョン・ケージ(1992−93)
ジョン・ケージ:易の音楽 第1巻(1951)
一柳慧:ピアノスペース(2001)
モートン・フェルドマン:ヴァイオリンとピアノのための小品(1950)
エクステンションズ1(1951)
アントン・ウェーベルン:ピアノのための変奏曲op27(1936)
一柳慧:ピアノクラフト(2010)
アーノルト・シェーンベルク:ピアノ曲 op33a(1929)、op33b(1931)
一柳慧:ピアノ音楽 第4番(1960)、第6番(1961)

 

2018年9月20日 j.mosa

 


楽しい映画と美しいオペラ――その79

愛の孤独と豊かさを鮮烈に描く——イ・チャンドン『オアシス』

 

 

男と女の愛は、ふたりだけのもの。他者の容喙をゆるさないし、他者に説明もできない。もちろん、他者には理解しようもないものだ。そして、静かに、深く、ふたりの土地を耕していく。この映画は、この愛の真実を、極端に、鋭利に表現していて、強い衝撃を受けた。

 

男は、刑務所から出所したばかり。冬なのに、半袖の夏シャツ姿である。冬服が差し入れられた形跡はないし、出迎えた者は誰もいない。母親や兄弟もいるようであるから、彼が家族の厄介者だということが分かる。乱暴で、いささか頭が弱い。

 

女は脳性麻痺で、動くこともままならない。ときに顔は引きつり、もちろん言葉を発するに難渋する。彼女の面倒をみる兄夫婦は、妹の障がい者であることの権利を巧みに利用する。妹への愛情があるようにはとてもみえない。

 

男は2年6ヶ月の刑期を終えたのだが、それは女の父親を誤って車で轢き殺した罪だった。男は出所後、果物籠を持って被害者宅を訪れ、そこで障がいの身を持て余す女と出会ったのだった。その女を、それなりの器量だと男は思う。いっぽう観客は、男が、婦女暴行未遂など、前科三犯であることを知ることになる。

 

性を媒介に結びついたふたりは、人目を避けながら、奇妙な逢瀬を楽しむことになる。女の部屋で、あるいは女を車椅子で連れ出して。誰からも顧みられることのないふたりにとって、このはじめての恋は、天にも昇る高揚感をもたらしたはずである。

 

昔の僕は迷路の中で行く先を見失っていた
生きる理由なんて分からなかった
でも君がいたから僕は生きてこられた
君にすべてを捧げたい
君のために
歩いてあの空まで

 

男は、車椅子の女を前にして、カラオケボックスで絶叫する。語彙の乏しい男にとって、これは精一杯の、そして心からの、愛の告白であろう。

 

しかしながら、このような「落ちこぼれ」同士の恋が、この社会で成就するはずはない。男は婦女暴行罪で捕らえられ、「お前は変態か」と刑事に罵られる。母親は旧知の牧師に魂の救済を依頼する。その祈りの最中、男は警察署を脱走する。

 

タイトルの「オアシス」とは、女の部屋の壁に貼りつけられている織物の題名である。楽園を象徴しているのか、椰子の木陰で女と子どもがラッパを吹き、子象が踊っている。街灯が灯ると、街路樹の枝の影が、窓を通してその絵柄を大きく覆ってしまう。女はその影が怖いといつも言う。

 

警官に追いつめられた男は、街路樹に登り、嬌声をあげながら枝を切り落とす。下から眺める警官や野次馬たちには、男が狂っているとしか思えない。女だけにしか理解できない、献身の行為である。カラオケの場面と共に、心に沁みた。

 

男は刑務所から女に手紙を書く。出所したら美味しいものを食べに行こうと。女の日常は、もはや彼に会う前の日々ではない。他の誰にも理解されないが、心は満たされているはずである。もちろん、男の心も。愛は時空を超える。愛の奇跡というものだ。

 

この映画は、第59回ヴェネツィア国際映画祭で、監督賞と新人俳優賞(女を演じたムン・ソリ)を受賞している。その他の映画賞受賞も多数。

 

2002年韓国映画

 

監督:イ・チャンドン
脚本:イ・チャンドン
出演:ソル・ギョング、ムン・ソリ
音楽:イ・ジェジン
撮影:チェ・ヨンテク

 

2018年8月9日 j.mosa


楽しい映画と美しいオペラ――その78

オペレッタの楽しさがいっぱい!——東京室内歌劇場『天国と地獄』

 

 

芸術は人生にとって、本当に必要なものなのだろうか。ここ半年に近い間、私はオペラはもちろん、映画すらも観にいかなかった。家でも、音楽はほとんど聴かなかった。理由はないことはないけれども、毎日の生活を送るうえで、どうやら芸術の占める位置は、そんなに高くないことを思い知ったのだった。

 

今日は日本国憲法が施行されて71年目の記念日である。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。この、第25条の第1項こそ、日本国憲法のもっとも重要な精神だと思うのだが、ここでも芸術は、衣食住などと比べて、優先順位が高いとはいえない。国でも自治体でも、財政的に豊かになってはじめて、芸術に税金を費やす。財政が窮乏すれば、真っ先に削られるのも芸術予算である。食べること、着ること、住まうこと、そして健康。これらの価値に比べて、芸術などはまことに影が薄い。


そんな思いでいる日々、久しぶりに舞台芸術に接した。オッフェンバックのオペレッタ『天国と地獄』である。知人が出演するというので買ったチケットだったが、私の鬱屈をキレイに吹き飛ばしてくれた。私にとっては、美しいというのが芸術の原点だが、これはそのうえ、楽しいというぜいたくなおまけがあった。いやいや、芸術はそんなに捨てたものではない。心の豊かさは、生きるエネルギーとなるのだ。嬉しい再認識である。

 

せんがわ劇場は収容人数120人ばかりの小さな劇場。本公演は、そのメリットを最大限に活かした、インティメイトで、じつに楽しい舞台だった。オペラにせよオペレッタにせよ、成功の鍵はもちろん歌手である。このオペレッタはいわば群集劇で、実力のある歌手が揃う必要がある。ここでは、東京室内歌劇場がその底力をみせてくれた。歌手のレベルの高さに驚く。その上に、コミカルな味を存分に出した演技もたいしたもの。伴奏はヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ピアノだけ。指揮者、新井義輝の力も大きい。

 

さらに感心したのは、飯塚励生の演出である。コミカルな内容にピッタリのリズミカルな動きといい、世相を取り入れた現代感覚といい、2時間があっという間。現代における「世間」の重要性が強調されて、それは確かに「週刊文春」でつくられるし、スマホで拡散される。

 

「音楽と言葉」についても考えさせられた。最近のオペラ上演はほとんどが原語上演である。言葉の抑揚や響きなどに細かく神経を傾けて作曲された作品である。原語上演は至極もっともだと思う。しかし、風刺や皮肉をちりばめたオペレッタとなると、原語上演がいいとは必ずしもいえない。本公演の訳詞には不自然さはなく、日本語であるゆえの臨場感に満ちていた。

 

この室内楽版『天国と地獄』で、ぜひ全国を回ってもらいたい。オペラの広がりが大いに期待できるというものだ。


2018年4月28日 調布市せんがわ劇場

 

指揮:新井義輝
演出:飯塚励生

 

オルフェウス:谷川佳幸
ユリディス:加藤千春
世論:三橋千鶴
ジュピター:和田ひでき
ジュノー:田辺いづみ
ダイアナ:原 千裕
ミネルヴァ:横内尚子
ヴィーナス:上田桂子
キューピット:植木稚花
マーキュリー:吉川響一
マルス:酒井 崇
プルート:吉田伸昭
ジョン・スティックス:三村卓也

 

ピアノ:松本康子
クラリネット:守屋和佳子
ヴァイオリン:澤野慶子
チェロ:三間早苗

 

2018年5月3日 j.mosa


楽しい映画と美しいオペラ――その77

祈りは音楽の源泉か——真言声明とグレゴリア聖歌のコラボレーション

 


祈りこそ音楽の源泉ではないか? 真言声明とグレゴリア聖歌のコラボレーションを聴いて、そう実感した。声明は日本音楽の、グレゴリア聖歌は西欧音楽の、それぞれ源流だといわれている。そのふたつが共演する? 大きな期待を持つことなく、ほとんど興味本位で、オーチャードホールまで出かけたのであったが。

 

18時過ぎにホールに到着。すでに大人数の行列ができている。指定席なのになんで行列が? オペラやクラシックのコンサートでは考えられない。聴衆があまりに多く、一時に入りきらないのだった。東京でも有数の大ホールが、それこそ超満員。いったい誰が、このような「地味な」企画に興味を持ったのだろうかと、いまでも不思議でならない。

 

第一部は真言宗の声明。「庭讃(にわのさん)」「唱礼(しょうれい)」「散華(さんげ)」「光明真言行道(こうみょうしんごんぎょうどう)」「称名礼(しょうみょうらい)」の5曲。それぞれ儀式の際に歌われるのだろうが、はじめて聴く身には、一括して「真言声明」として聴くほかはない。

 

舞台の両袖から、金銀の刺繍に彩られた、華やかな法衣をまとった僧が登場する。ふたりは法螺貝を高らかに吹き鳴らし、別のふたりはシンバル様の楽器(繞(にょう)というらしい)を派手やかに響かせる。左右対である故、ステレオ効果満点である。2種類の楽器に先導されて、十人余の僧が登場する。絢爛豪華。見事な幕開けというほかない。

 

先唱する僧も、斉唱する僧も、惚れぼれするような力強いバリトンである。もちろん、オペラなどの発声法であるベルカント唱法ではない。後の、謡い、義太夫、浪曲、歌謡曲などにつながる、喉を振り絞るような声。十分に歌いこまれた荘厳な美声に、すっかり引きこまれた。

 

さて第二部のグレゴリオ聖歌。これはもう、天上の歌声という表現がぴったり。繊細で柔らかな十数人の歌い手の声が、まるで一本の線のように天に立ち昇る。ベルカント唱法ではもちろんないのだが、ルネサンス期に完成されたとされるポリフォニーは、もう目の前だと感じられた。

 

圧巻は第三部である。声明とグレゴリオ聖歌のコラボレーション。これほど異質な音楽をどのようにコラボさせるのか。想像もつかなかった。ところが、それぞれがまったく関連のない曲を歌いながら、ひとつの圧倒的な宗教空間をつくりあげた! 地を響かせるような声明のバリトンの上に、軽やかに宙を舞うグレゴリオ聖歌の歌声。いったい誰がこのような組み合わせを考えたのだろう。

 

コラボは2作あり、それぞれ以下のとおり。
声明「露地の偈」/グレゴリア聖歌「異邦の者が我に逆らいて立ち」(交唱)、「主よ、御名によって」(詩篇第54編)
声明「理趣経善哉譜」/グレゴリオ聖歌「第4ミサのキリエ」

 

声明とグレゴリア聖歌に共通するのは祈りである。人間を超えた存在に対する祈り。神であれ、大日如来であれ、祖霊であれ、自然であれ、自らを超えた存在に対して、人は祈る。それは、人間が弱い存在であるからだ。自らの力ではどうにもならない出来事は多い。声明とグレゴリア聖歌が生まれた中世の時代ではなおのこと、人間の力は小さなものであったろう。祈りは切なるものであったはずである。オーチャードホールでは、その祈りの力をまざまざと体験することができた。


2017年12月1日 オーチャードホール

 

真言宗青教連法親会
ミラノ大聖堂聖歌隊

 

指揮:クラウディオ・リヴァ

 

2017年12月4日 j.mosa


楽しい映画と美しいオペラーーその76

レジスタンスの栄光と悲惨——『ハイドリヒを撃て!——「ナチの野獣」暗殺作戦』

 

 

2時間、まるでナチス占領下のプラハにいるような緊張感のなかにあった。ナチスの兵士たちが銃を構えて街を警戒している。暗い表情ながら、市民の姿も多い。そのなかの、誰が味方で誰が敵なのか? この状況下で暗殺は可能なのか? 実際のプラハで撮影されただけあって、街並みは美しく、じつにリアル。そのぶん、緊迫感も並ではない。

 

1938年9月、ナチスはボヘミア・モラヴィア保護領としてチェコを支配下に置く。翌年9月、第二次世界大戦が勃発したこともあり、その支配は厳しさを増す。41年冬、ロンドンのチェコスロヴァキアの亡命政府は、保護領の責任者、ナチスNo3のラインハルト・ハイドリヒの暗殺を計画する。「エンスラポイド(類人猿)作戦」といわれるが、暗殺を命じられたのは、ヨゼフ・ガブチークとヤン・クビシュのふたりの青年である。

 

パラシュートでプラハ郊外の森に降下したふたりは、地下抵抗組織を頼ってプラハに潜入する。しかし組織は、ハイドリヒの手で半ば壊滅の状態にあった。組織の中心人物は、この計画そのものに疑問を呈する。成功の可能性は低く、たとえ成功したとしても、報復の犠牲が大きいと。

 

作戦を立案する者と実践する者。両者が幸福な信頼関係を保つことは必ずしも保障されない。立案者は往々にして現場から遠く離れている。現地の詳細な情報なしには、現実的な作戦など立案できないのだ。この「エンスラポイド作戦」も、その不幸な実例だったといわざるをえない。

 

ハイドリヒの暗殺には辛うじて成功しながら、いったいどれほどの犠牲があったことか。ヨゼフの恋人は銃殺され、彼らに協力した平凡な一家は無残な虐待を受ける。暗殺に関わったと判断された村の住民数百人も虐殺されるなど、およそ5千人の市民が犠牲になったという。

 

しかしながらこの映画は、不幸を冷徹に見据えつつ、プラハ市民の、ナチスに対する不屈の戦いに大いなる敬意を表している。確かに、危険をも顧みない不屈の精神なくして、ナチスという悪を倒すことはできなかったろう。この事実も含めて、悪に対する抵抗運動はいかにあるべきかを、深刻に考えざるをえなかった。

 

暗殺に関わった者たちが壊滅させられる、最後の銃撃戦は凄まじい。チェコ国民の抵抗精神が残酷に描かれ、その力強さと、また儚さに、圧倒される思いであった。極限状況下での恋、ミッションへの疑いに揺れる隊員の心、密告者の慚愧など、人間の心理も説得力十分に表現されて、レジスタンス映画の不朽の名作となった。

 

2017年8月17日 於いて新宿武蔵野館

 

2016年チェコ・イギリス・フランス映画
監督:ショーン・エリス
脚本:ショーン・エリス、アンソニー・フルーウィン
撮影:ショーン・エリス
音楽:ロビン・フォスター
出演:キリアン・マーフィ、ジェイミー・ドーナン、シャルロット・ルボン、アンナ・ガイスレロヴァー、トビー・ジョーンズ

 

2017年8月27日 j.mosa
 



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