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- 2020.04.21 Tuesday
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読まないでいるといつか後悔するぞ、と長年宿題にしていた作品のうちの一作をようやく手にした。『苦海浄土 わが水俣病』(石牟礼道子)である。「わが水俣病」のこの「わが」が凄い。「水俣病」の生まれた土地で、「水俣病」を生きざるを得ない人びととの精神的交流を続けた人間でなければ、こうは書けない。まさしく石牟礼道子は、汚れた不知火の海とその汚れを体内に蓄積した民と、そしてこの民が訴える運動の現場を、抱え込んで怯まなかった。
だが迷いがなかったとはいえまい。それを示すこんな一節がある。チッソ本社に訴え出るために上京して何日も座り込みをしたり、杉並の宿泊施設に寝泊まりしたりしている時期のものだ。
「かけつけられない人びとも、電話のむこうで報告のリレーを受けもった。それぞれが手分けして夜を徹し、抗議文書が出来あがる……。「……このような文案にいたしました……御賛意いただきたくて御電話申し上げる次第でございます」とわたくしは懇願しつづける。ひとりの尊敬する著名氏からは、「あなたはそういうことをせずに、じっと辛抱して書くべきですよ作品を。多勢の人間の、役に立たない抗議文書より、ひとりの人間の思いをこらした文学が、どんな効果を発するか、あなたも知らないわけではないでしょう」とのご忠告である。そのおことばは胸に応えた。応えすぎた。」
当該の著名氏の指摘はいちおう正論だ(「多勢の人間の、役に立たない抗議文書」の部分は正論とはほど遠いが)。けれども、とわたしは思う。石牟礼道子が「じっと辛抱できず」、ほとんど本能的に、義を重んじ民への情へと走ってしまう人でなかったならば、『苦海浄土』の一句一句がこれだけのエネルギーをたくわることはできなかったのではないか、と。このエネルギーはいわゆる文学的なものとは少し異なるような気がする。現場を尊重するドキュメンタリーのそれとも違う(大宅壮一ノンフィクション賞を作者が辞退するのも当然だ)。
なんといおうか、巫女のもつエネルギーとでもいうか。不知火の海を抱く天草から薩摩までの分厚い歴史を幻視し、そこに生きてきた、また生きている民の内面に同化する巫女、それが石牟礼道子という人ではなかったろうか。『苦海浄土』はたぐいまれなる巫女が綴った風土記でもあるか。
むさしまる
『故郷の世界史 ―解放のインターナショナリズムへ』(キム・チョンミ著、現代企画室)という面白そうなタイトルに惹かれて手にしたら、意外な中身だった。いや、意外なだけでなく、前回の『敗北を抱きしめて』をめぐる駄文のコンセプトを見直さなければならないと思わされた。それは、日本の「敗北」を「解放」と捉えた人々がいたはずだ、というごく単純な、しかしながら、多数者の側に楽々と生きていると見えにくい、当たり前の認識だ。
キム・チョンミの著作に敗戦のことが書いてあるわけではない。しかし、アイヌ、台湾、朝鮮半島への侵略の歴史をたどり、部落解放運動の巨星ともいうべき松本治一郎の第二次大戦下の言動の問題視する『故郷の世界史』を読み進めていると、第二次大戦の「敗北」に敗者の美学を適用して安住してしまいそうなわたし(たち)の弱点が見えてくる。
『故郷の世界史』の冒頭部分には、日本の植民地主義の歴史とりわけ日本による台湾の先住民族弾圧の史実が事細かに取り上げられている。著者の出自を考えれば朝鮮半島の歴史に比重が大きくなって自然だと思えるが、そうなってはいない。あるいは、日本における、台湾先住民弾圧の認識が不足しているといいたいのだろうか。
著者の真意はともかく、霧社事件を多少調べて分かった気になっていたわたしは、ほとんど何も知らないことを気づかされて唖然とした。一例を挙げれば、『旧植民地文学の研究』で尾崎秀樹が甘く採点した後藤新平(尾崎一家の恩人でもある)、そしてまた現在の日本社会のなかで評価の高い為政者としての後藤新平、その後藤が台湾総督を補佐する民生局長として活躍する時代に、なんと多くの先住民族虐殺事件が発生していることか。
それにしても、キム・チョンミという在野の歴史家に台湾先住民族虐殺の歴史を教わる現状をどう考えたらいいのだろう。わたしたちは、彼女の著作を前にして襟を正さないわけにはゆくまい。
もうひとつ、残念なことがある。本書のなかでキム・チョンミは部落解放運動の松本治一郎とともに、『青年の環』における野間宏に批判の矢を放つのだが、その批判に対して日本人の文芸評論家や解放同盟の誰彼が反批判を繰り広げていることである。キム・チョンミの批判は多少直線的すぎるきらいがあることは確かだ。また、それに対する反批判もそれ自体はむしろ健全なありかただと思う。
問題は、その反批判の内容ではなく語り口である。文学を解せぬ素人が…、日本文学を味わえないよそ者が…といった口吻を呈していることなのだ。これが台湾先住民族の虐殺を支えていたメンタリティーではなかったのか。ポスト・コロニアリズムの時代だって? とんでもない。
むさしまる
筆にしろペンにしろ、自画像を描くことは思うほど簡単ではないのではないだろうか。自分との距離の取り方がむずかしい。「わたしは、わたしを見るわたしを見ていた」などと謳った詩人の真似を誰でもができるわけじゃない。ちょっと憧れるけれど。「自分を描く小説は書けない」と白状した日本の小説家の言葉は、そういうわけで、納得できる。
そのことを再確認させてくれた本が今回お勧めの本『敗北を抱きしめて』(ジョン・ダワー著 岩波書店)である。これを手に取るきっかけになったのは、さる評論家の恨み節の一句だった。いわく、「勝者のアメリカ人に、(敗戦国の我々が書くべき)こんな本を書かれてしまった」と。終戦前に『菊と刀』で裸にされた日本の心性が、敗戦直後のわたしたちまでもが、ものの見事に分析されたというわけだ。
かぎりなく口惜しい!との心情はわたしにも分かる気がする(敗戦を生きた世代と決定的差異があることを承知しつつ)。だからこそ手に取ったのだけれども、読後感はまるで違った。敗北者が自己の敗北をこんなに冷静に描くことはできまい。文学的自画像ならともかくも、歴史的記述として、自分たちのみじめな敗北をここまで客観的に書けるのか?と。
たとえば映画『浮雲』で、高峰秀子演ずる幸田ゆき子が闇市近くのバラックでロイ・ジェームス扮する進駐軍兵に抱きかかえるように守られて歩くシーンを思い浮かべてほしい。
監督成瀬の映像は冷静に、ものの見事に「敗戦直後」を描いている。それは闇市の雑踏や銀座のパンパンについて語るジョン・ダワーの筆致と重なる。
けれども、これこそ地の利というべきか、同じ筆致で憲法草案や極東裁判が活写されるとき、これは当事者には不可能な視線だと思わざるをえない。完膚なきまでに叩きのめされた者の、惨めさと悔恨と絶望と少しばかりの夢を抱えながら、幸田ゆき子と東条英機を同じレベルの静かなまなざしで見つめることは神業に属する。
そんな『敗北を抱きしめて』(上下巻で注を含めてほぼ1000頁)を立て続けに読み返すことになった。読み返さずにはいられなかった。なぜか。ある意味で現在のわたしたちの原点だと感じたからである。しかし、それだけではない。筆者の冷静な筆づかいの奥に、この国の民に対するまぎれもない「共鳴音」が響いているからなのだ。「敗北」を抱きしめているのは、わたしたちだけではない。
むさしまる
どうしてこんな面白い物語を読まずに積んでおいたのだろう。読み終わって、最初にこみあげてきた気持ちがこれだ。奥付は2008年10月だから、手に入れたのは今から10年前のこと。白状すれば、一度読み始めたのだが、たちまち挫折した。理由は単純明快で、本の余白があまりにも少なすぎた。文字間も行間も、そして余白もまた、呼吸できるだけの空間がなければ文字と文が生きてゆけない。余白の豊穣というではないか。
こうして背表紙ばかり眺めていた本がジョルジェ・アマドゥー『丁子と肉桂のガブリエラ』(尾河直哉訳,彩流社)だ。心機一転して手にしたのには、ワケがある。訳者の尾河は旧友で、この夏に入って体調を崩しているとの噂を耳にしたのだ。尾河訳の底力は須賀敦子賞に輝いた『カオス・シチリア物語』(白水社)で証明済みだから、余白の息苦しさに耐えさえすれば楽しい物語世界に浸れるはず、それで読み終わったら激励の感想を尾河に書いてやろうと思って「ガブリエラ」の物語に入り込んだのだった。
舞台は南米ブラジルの港町イリェウスで、ほぼそこのみで展開する。そして、この町こそが主人公といってもいい。町の面々が集まるバー兼レストランを軸に政治運動、男女の色恋沙汰、金儲けに群がる欲望の数々と、わたしたちの今の生活がそこに活写されたかのような、ちょっと猥雑で彩り豊かな世界が展開する。とどのつまり、イリェウスの町は生きているのだ。
町が主人公という点で、この小説はガルシア・マルケスの『百年の孤独』に似る。さらに、オノレ・ド・バルザック描くパリの物語にも通じる。
マルケスにもバルザックにもそれぞれの独創があるが、アマドゥーのそれは一風変わったガブリエラの創出であろう。この娘の常識破りというか余りにも天真爛漫な言動は、思わずわたしたちの守っている常識がマヤカシじゃないのか、と問い詰めてくる破壊力をもっている。結婚という制度もそれに縛られる性の営みも、ガブリエラという野性児にとっては欺瞞以外の何ものでもない。
さて、読了後の興奮を抑えがたく訳者本人に詫びを入れつつ感想を書いた。今頃読んですんまへん、でもこんな風に世界を丸ごと書く小説が少なくなったなあ、と。かの訳者はすぐ返事をくれた、あれは優れた全体小説だ、こういう小説が読まれないこと自体が日本の貧困を示している、と。
そんな風に怒っていた訳者尾河が、ガブリエラ発行のちょうど10年後のこの10月に他界した。あまりにも早い訃報に呆然とする。かつて谷沢永一は親友開高健の死去を悼むあまり『回想開高健』を書き、その末尾にこう記した。「これからの、わたくしの、人生は、余生、である。」 尾河の死を前にして、今あらためて、わたしは、この一文の読点の重みを噛みしめている。
むさしまる
『褐色の世界史』(ヴィジャイ・プラシャド著、水声社)は「第三世界」から見た世界史だ。わたしたちが中学・高校で押しつけられる世界史とはかなり趣が異なる。歴史は原則として強者の歴史であり、したがって、基本的には「第一世界」の、つまり欧米中心の歴史となる。この歴史に対して大きな疑問符をつけたのがヴィジャイ・プラシャドということになる。
扱う時代の中核部分はほぼ第二次大戦後から70年代末まで、戦後の東西冷戦構造のなかで、「第三世界」がある役割を荷いうると期待された時代である。その役割は著書の冒頭に引用されたフランツ・ファノンのことばが雄弁に語る。「第三世界は今日、一つの巨大な塊としてヨーロッパに対峙している。そのプロジェクトとは、ヨーロッパがこれまで答えを見つけられずにいる問題を解決しようということであるはずだ」。
ところが、ソ連解体により冷戦構造が消失し、「第三世界」もまたグローバル資本の波に呑みこまれて問題を解決する力を削がれているのが現状であろう。この現状の処方箋はむずかしい。けれども、「第三世界」から見た世界史という考え方は、処方箋を作るときに忘れてはならない視点だと思う。
筆者のプラシャドはインド出身の学者だが、アジアと西洋の関係を論じた浩瀚な歴史書『西洋の支配とアジア』(藤原書店)の著者パニッカルもまたインドの政治家・学者である。しかも扱う時代はバスコ・ダ・ガマのインド到達から第二次大戦までの500年近くに及ぶ。パニッカルにもアジアの側から見た西洋世界という視点が当然ある。プラシャドとパニッカルに共通するのは、いっぽうは空間的もういっぽうは時間的な、視界の広さだ。大英帝国支配の苦渋を呑まされてきた民のエネルギーがそうさせるのだろうか。
視界の広さということでいえば、フランスの歴史学者マルク・フェローの『植民地化の歴史』(新評論)は「第三世界」の歴史を700年にわたって展望した大著である。わたしたちが知らない世界史の裏面、あるいは知っていたとしても断片的情報に解体されて本質が見えなくなっている歴史的事実、それらを「植民地化」という一点に絞って紡いだのがこの本だ。筆者はユダヤ系フランス人。ヨーロッパの内なる他者としての第二次大戦を生き抜いた経験をもつ。そういう人間ならではの視線に貫かれている。「核なしに戦争するノウハウを学んだ」(佐藤優)現代世界の見取り図を描くには必須の一書だろう。
学問研究分野の細分化が進んでいる現代には、こうした「大きな歴史」を描く意味は大きい。フランスの歴史学の場合、例えば1931年のパリ植民地博覧会だけに焦点を絞って研究する学徒や研究者は枚挙にいとまがない。細部のみにこだわるスペシャリスト全盛の時代なのだ。だから、上記のフェローのような書物は“大風呂敷”の評言が必ずついてまわる、フランスでも日本でも。「大きな歴史」も「小さな歴史」もなくてはならないはずなのだが…
その「小さな歴史」の一例として、無文字社会であった西アフリカ・マリの語り部アマドゥ・ハンパテ・バーの自叙伝『アフリカのいのち』(新評論)の一節を紹介しておこう。書物を絶対視しがちなわたしたちの足元を確認するのに役立つと思う。
それゆえ、文字をもたなかったからといって、アフリカが過去や歴史や文化をもつことがなかったわけでは決してないのである。私の師匠ティエルノ・ボカールが後に何度も言うように、「文字は事物であり、知識はそれとは別のものである。文字は知識の写真であって、知識そのものではない。知識は人の内側にある光である。知識は先祖たちが知ることのできたものすべての、そして先祖たちが私たちに胚芽として伝えたものすべての遺産なのであって、それはちょうどバオバブの木がその種子のなかに潜在的に含まれているのと同じことなのである」。
むさしまる