一般財団法人 知と文明のフォーラム

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書いた記事数:63 最後に更新した日:2017/12/11

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フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その四

最初の映像は砂丘地帯を馬がゆく。馬上には黒い衣装の男、それと後ろに素っ裸の男の子。人を食ったような光景だ。やがて、とある村につく。村人はほとんど死んで、そこら中に死体がゴロゴロと転がっている。瀕死の男が一人いる、その男に向けて、くだんの裸の男の子が何のためらいもなく拳銃をぶっ放す。

 

万事がこの調子だ。映画の題名は『エル・トポ』。主人公の男はガンマンで、名うての名射撃手と果し合いをして拳銃の王者になるというのが一応の筋のようだ(ただし前半の)。とはいっても、筋などどうでもいい、というのがこの映画の売りだろう。個別のシーンをそのまま切り落として額縁に飾るにふさわしい場面ばかりが目白押しだから。

 

青い青い空、乾燥した砂丘、なぜかある小さな池、その中でパラソル片手の裸婦、ウサギの死体群、箱に両足を折り曲げて横たわる死体、両腕のない男と両足のない男… 今思い返しても、次から次へと映像がフィードバックする。とまれ、前半の最後は肉体的ハンディキャップを負った人々の一群が流れるシーンで終わる。

 

このハンディを負った人々(同一人物群ではない)が後半でも重要な役割を果たす。出だしは山の洞窟の中。そこは社会から隔離された、被差別者たち(ハンディを負った人々)の隠れ家だ。その被差別者のなかの若い女と、洞窟で瞑想する外来者の僧侶とが近くの町に出かけ、退廃した町でさまざまな珍場面に遭遇するのが後半の筋立てのようなものである。

 

ここでももちろん暴力が日常的に現れる、たとえば教会で、ロシアンルーレットのごとく、男の子が拳銃で自分の頭をぶち抜いたり、黒人奴隷が見世物娯楽のように馬に引かれて死んでいったりと。一方で、老齢の爛れたような娼婦群を筆頭とする退廃ぶりもすさまじい。

 

被差別者の若い女と僧侶は夫婦となり、洞窟から町へ抜ける穴を掘り始めるが、完成した穴から町へと殺到する被差別者の群れは町の住民に皆殺しになる。モグラのような彼らは陽の当たる世界では生きてゆけない。『エル・トポ』とは「モグラ」の意味だ。

 

この映画をトータルに論評することはむずかしい。とにかく、ある種の常識が破壊され、体のなかに眠っていた感覚が目覚めさせられる快感がある。暴力と退廃が通過した後に、未知の感覚に体を覆われているとでもいったらいいか。

 

むさしまる

 


フォーラムをめぐる人々―歳をとるのもいいものだ

歳をとるのもいいものだ

 

 

歳をとるのもいいものだ。こんな嬉しい感慨を覚える映画に出会うことができました。春日井市近郊のニュータウンで、野菜70種類、果物50種類に囲まれて暮らす老夫婦のドキュメンタリー、『人生フルーツ』です。

 

周りに何もない、まるで砂漠のようなニュータウンの造成地、その一角に300坪の土地を購入して50年。その土地は、雑木林となり、果樹園となり、畑となりました。ここで、まるで農夫のように暮らす主人公は、建築家の津幡修一さんと、妻の英子さん。90歳と87歳のご夫婦です。

 

食事はもちろん、農作業や大工仕事など、ほとんど他人の手は借りません。その徹底したエコライフに感心したのはもちろんですが、私は津幡さんの仕事との関わりに興味を覚えました。

 

彼は、日本住宅公団のエース建築士として、いま自らが住む高蔵寺ニュータウンを設計したのでした。可能な限り自然と調和させようとした彼のプランは、公団の合理主義・効率主義とは相入れません。大幅な修正を余儀なくされます。

 

高蔵寺ニュータウン内の彼らの土地と家は、公団の、というよりは、日本社会の、機械的効率主義への異議申し立てのような気がします。津幡さんは、息をひきとる直前、伊万里市の小さな医療福祉施設の設計を依頼され、はじめて思うような仕事ができた、と述懐するのです。設計料は受け取りませんでした。

 

「この人は、歳を重ねるごとにいい顔になってきたんですよ」と、英子さんは言います。柔和な表情で遠くを見つめる修一さんの顔は、夢を宿したいい顔です。そんな夫と60年余連れ添った英子さんの顔もまた、チャーミングでいい顔。歳をとるのもいいものだなぁ。ホントにそう思いました。

 

風が吹けば、枯れ葉が落ちる。
枯れ葉が落ちれば、土が肥える。
土が肥えれば、果物が実る。
こつこつ、ゆっくり。
人生、フルーツ。

 

樹木希林のナレーションも、また良かった!

 

2017年11月30日 於いて飯田橋ギンレイホール
監督:伏原健之
編集:奥田繁
撮影:村田敦崇
音楽:村井秀清

 

2017年12月7日 森淳


フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その三

こんな味わいの日は、そうざらにはあるまいなと思えるほど濃い時間を過ごした一日だった。台湾映画の7時間、そのあとビールと餃子を囲んで映画好き3人の映画評。帰りの電車のなかでは、人々の日本語が異国語に聞こえた。オレ、台湾人になったんやろか?

 

『非情城市』については、森さんに書いてもらったから、今回は『クーリンチェ少年殺人事件』にしぼりたい。でも一言だけ、主婦に戻ってスクリーンではもう出会えない、あのシン・シューフェンの不思議な風情とその風情をつつみこむメロディーの物憂げな美しさ、それと対照的な冒頭と最後の力強いリズム。こればかりは特筆しておきたい。歴史に翻弄される人々の、どっこいしぶとく生きますよ、と鼓舞するリズムなんだな、これが。

 

さて『クーリンチェ』、これはまた見事といえばあまりに見事な作品だ。語りたいシーンは多々あるが、わたしにとってのこの映画の印象はほぼ2点にしぼられる。すなわち「暴力」と「少女」。

 

まずは「暴力」だが、昭和世代としては、どこか中野電波高と朝鮮高校のすさまじい凌ぎ合いを彷彿とさせる。この暴力をブラジル映画の『シティ・オブ・ゴッド』と比べる人もいるだろうが、単純な比較はできないと思う。どちらも、植民地化を受けた国の少年たちの暴力ではあるけれども、混血社会である南アメリカの大都市のスラム街に巣くう暴力と、急激な近代化を余儀なくさせられた中国系台湾人の一般家庭の少年たちが抱える暴力とでは、位相がまったく異なるのではないのか?

 

『クーリンチェ』を支えているこの暴力の背景には、アメリカン・ポップスに代表される米文化の強大な影響力と半世紀にわたる植民地支配の残響たる日本家屋がある(と思える)。和風の四畳半の部屋で聞くプレスリー… まるで昭和の日本だ。それだから、米文化を象徴する野球バットと日本文化の残響たる日本刀が、映画のなかで象徴的な役割を果たしている気がしてならない。

 

もう一点の「少女」。映画のなかで「小明(シャオミン)」と名づけられた彼女は、何と形容しようか困惑するほど不可思議な女の子で、わたしにとっては「あの女の子」と匿名でしか表わしようのない抽象性をもっている。この抽象性を別の表現にすると、ある種のヴェールをまとっている、ともいえるし、リアリティの欠如、といってもいい。ともかく、彼女は“遠い”のだ。

 

目の前に居ながら手の届かぬあちら側に居るような、そんな少女を好きになった少年が相手を自分に引き寄せたいと思うとき、彼女を生身の人間として感じたいとき、少年に可能なこと。それは、彼女を包むヴェールを引きちぎって暴力的にこちら側に引き寄せること、つまり彼女の生暖かい血を流させることじゃないのか? その血が流れるのを感じたとき、少年にとって抽象的な「女の子」が初めて現実的は「僕の小明」になるのではないだろうか?

 

刺殺の決定的瞬間は、もちろん映画のクライマックスだ。たいていの映画ならスクリーン一杯に二人の顔がクローズアップされるところだろう。でも、ドン・ホセとカルメンのようにはいかない。遠景に映る二人の表情は判然としない。だから、観客であるわたしたち自身がその表情を想像するしかない。そして想像せずにはいられない。そんな風にわたしたち観客それぞれが自分の思い描く二人の表情を描くこと、それは二人になり替わることであり、主人公二人の生を生きること(部分的であれ)でもあるだろう。これも監督の仕業かと思うと、エドワード・ヤン、恐るべし!

 

むさしまる


フォーラムをめぐる人々―仲間と観る映画もいいものだ

仲間と観る映画もいいものだ

 


映画はひとりで観ることが多いのですが、昨日は映画好きの友人ふたりと一緒に鑑賞しました。台湾映画の名作、『非情城市』と『クーリンチェ少年殺人事件』です。評判の高い映画ながら、私は2作品とも観のがしていました。24日の1日だけ同時上映があるとN本さんから聞き、すぐチケットを買いました。そしてむさしまるさんに情報を伝えたところ、彼も迷うことなく購入したというわけです。ふたりとも、上映時間7時間という長さに恐れをいだきながら、ではありました。

 

仲間と映画を観る楽しみは、終映後のおしゃべりにあります。ああでもない、こうでもないと、作品について無責任にダベる時間がじつに楽しい。つまらない作品だと、いや、結構面白い作品でも、だいたいすぐに話題は拡散するものです。昨日の2作品はそういうわけにはいきません。語るべき内容が、あまりにも多いのです。これは、傑作である必須の条件でもあります。

 

まるでドキュメンタリーを観ているような臨場感。台湾の現代史を学ぶ糸口に満ちている。なによりも陰影深い映像が素晴らしい。2作品に共通する要素は多くあります。そうそう、音に対する感性の豊かさも。東京国立近代美術館フィルムセンター大ホールの音響は、嬉しいことに、まことにいいのです。

 

共通点は多いながら、この2作品は、ある意味で対照的な映画だと思いました。『非情城市』は、数多いエピソードが、じつに緻密に構築されている。音楽もそうで、ユーチューブから流れるメロディを聴くだけで(ユーチューブにアップされています)、映画のシーンが鮮やかに目に浮かびます。『クーリンチェ〜』は構築性をあえて無視することで、少年の思いもかけない殺人に、確かなリアリティを与えています。衝撃度は並ではありません。

 

『非情城市』のカットのひとつひとつは、まるで絵のように美しい。小津安二郎の影響を喧伝されるはずです。ヤクザの抗争という暴力場面が多いにもかかわらずです。たとえば、九份という山上の街に女主人公が登っていくシーン。急坂であるため輿に乗り、主人公のトニー・レオンがあとに従っています。背景には遠く海が広がる。そして、懐かしく、美しく、また強靭な音楽。この場面で、私はもうこの映画の虜になりました。

 

戦争が終わって日本人が去ったと思ったら、今度は本土から国民党がやってきた。台湾は50年間日本の支配下にあったわけですから、台湾の人たち(本省人)は中国本土の人たち(外省人)を相手に戦ったわけです。同じ漢民族でありながら。この矛盾は、戦後の台湾社会に深い影を落とします。1947年には、国民党(外省人)が本省人を弾圧・虐殺するという「二・二八事件」が起こります。本省人である主人公の一家は、この悲劇的な歴史に翻弄されることになります。

 

誰かがこの映画を「台湾版ゴッドファーザー」と評しました。確かに家長を中心としたヤクザ一家の物語でもあり、面白さにおいて言いえて妙。しかし、抒情性、歴史性、そして芸術性、どれをとっても、はるかに上質の映画であることは間違いありません。

 

もうひとつの傑作『クーリンチェ少年殺人事件』。これについては、一緒に鑑賞したむさしまるさんに語ってもらうことにいたしましょう。

2017年9月25日 森淳


フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その二

成田空港に巨大な飛行機が飛び交って久しいというのに、なんで今更?といぶかる人も多いだろうけれども、先週は『三里塚のイカロス』(代島治彦監督)を見てきた。観客はざっと見積もって十人、ほぼ同世代の人々だった。大学紛争以降、狭山裁判や成田闘争などがクローズアップされた頃に、血気盛んな青年期を迎えた世代だ。わたしの近辺では、政治の動きにそこそこ興味があれば、どちらかの集会に身を置いたことがある人も少なくないはず。


見終って、しばし茫然としてしまった。ちっちゃな箱庭のなかで、蟻んこのような自分が右も左もわからず、精一杯こぶしを突き上げて空港反対を叫んでいた… それも、すでに頭上をジャンボジェットが轟音をがなり立てているさなかに。


映画は、さる左翼セクトの現場責任者の自省のことばとその姿を映すシーンで終わる。「自分たちの方針は間違っていた」。こんな終わりかたでいいのだろうか?との疑念が胸をかすめる。その一方で、三里塚の農村に嫁いだ女性たちの、現地の文字通り土に根差した生活から生まれることばに、安堵とも言い切れないが少し慰撫してくれる吐息が漏れた。


リアルタイムの政治的運動の全体像をつかむことは本当にむずかしい。現場に行かなければ、運動の息吹は決して伝わらない。だけれども、現場だからこそ見えにくいこともある。懸命になればなるほど見えにくい。それを教えてくれたのがこの映画だった。


フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その一

先月観た中国映画は不思議な作品だったな。意味があるんだかないんだか、何が言いたいんだかさっぱり分からんのよ。そのくせ、あと後まで、映像ばかりがちらつく。例えば、中国の文革時代の下放されたいわゆるインテリの青年が、山のなかの小高い丘にある小学校の校庭で、荷車らしきものの上にちょこんと飛び乗る。背景は夕焼け風で青年の体のシルエットが人形のように浮かぶ。何だろ、これ? 意味を追い求めるわたしらは堕落した人間なのかもな、と思ったりする。

 

不思議はいっぱいある。もう一つ、どうもよく分からない音がある(実はいくつもあるんだけど)。あるシーンで、カポンカポンと音がする、池のなかに乾いた太い竹を何本か浮かべて、そいつらをぶつけているのかもなあ、と思わせる音響で、これも忘れられないなあ。

 

忘れてたけど、冒頭のシーンも忘れがたい(変だね、この書き方)。いい年のオッサンが結構な太さの竹の筒で煙草を、無言で、吸っている。そこに主人公らしき青年が登場し煙草をめぐんでもらう。言葉は一切なし。言語なんかで大切なことは伝わらないよ、といわんばかりなのだな、これが。

 

さて、何の映画でしょうか? ジャーン! 答えはチェン・カイコーの『子供たちの王様』でした。


フォーラムをめぐる人々ーぶらりと映画館

ぶらりと映画館

 

 

街のまんなかで、ふと真空の時間を持つことがあります。なんの予定もなく、時間がたっぷりあるという幸福な状態です。そんなときは、近くの映画館か美術館をぶらりと訪れるのが一番。ときに至福の時間を得ることができます。まったく予定していなかっただけに、その喜びにはまた格別の味があります。

 

今日、お茶の水での歯科の治療が終わったのが11時。雨が降っていて、予定していた自転車散歩もできません。このまま帰宅するのもなぁ、という気分になりました。そこで、飯田橋のギンレイホールを覗いてみることに。ここはいまでは珍しくなった2本立て上映の映画館です。たっぷり時間がある身には2本立てはたいへん有難い。しかも、映画館主催の方の眼は確かで、時間を無駄にしたという記憶はまずありません。

 

『タレンタイム』と『台北ストーリー』。後者はなんとなく中身が想像されますが、タレンタイム? いったい何語? どこの国の映画? このようにまったく予備知識ゼロ。窓口で配布された「ギンレイ通信」というミニ案内を読んで、これがマレーシアの映画だということをはじめて知りました。監督はヤスミン・アフマドという女性で、8年前、51歳という若さで亡くなっている。

 

タレンタイムとは、Tale in timeで、高校生の音楽コンクールのことでした。このコンクールを、マレー系、インド系、中国系……、様々な高校生が目指すという、いわば青春物語です。それぞれの学生にはそれぞれの家族があり、宗教もそれぞれ。それゆえに生じる矛盾やら悲劇やらを、ユーモアたっぷりに描きます。クスリと笑いながら観ていくうちに、マレーシアの複雑な社会のありようが、肌身に沁みて理解されます。

 

人種・文化・宗教の差、親子の葛藤、聾唖という障がいまでも、若者たちは乗り超えます。困難をともないますが、清々しいその生命力に、心からなる拍手をおくりました。こんな気持ちになる映画などそうあるものではありません。それに、全編に流れる多彩な音楽も聴きもの。インド系、中国系、フォーク調、ドビュッシーやバッハまでも!

 

ぶらりと映画館に入って、思わぬ拾いものをした。そんな幸せな一日でした。

 

2017年9月4日 森淳


フォーラムをめぐる人々―何のための共謀罪法案?

何のための共謀罪法案?

 

 

13日の日比谷野外音楽堂は、共謀罪法案に反対する人々でいっぱいでした。会場に入れない人たちも大勢いて、小雨にもかかわらず5200人が集まったようです。15日未明、共謀罪法案は強行採決され、残念ながら成立してしまいました。それにしても、いったい何のための法案なのか。それは13日の集会に参加してよく分かったような気がします。

 

政府は「テロ等準備罪処罰法案」と呼んでいるのですが、テロ対策の内容は一か条も入っていないそうです。またこの法案が、「国連国際組織犯罪防止条約」の批准に必要だといっているものの、現行法のままで十分批准できるとのこと。それではいったいなぜ、こんなにも反対が多い法案を強引に成立させたのか。

 

ひとことでいうならば、秩序を守る名目で、監視の網の目を隅々にまで張り巡らせるため、ということでしょうか。悪名高いあの「治安維持法」よりも適用範囲が広いそうです。団地の自治会、趣味の同好会、私たちのような法人まで、容易に監視の対象になってしまう。国連の特別報告者、ジョゼフ・カナタチ氏が、プライバシー侵害や恣意的な適用の恐れがある、と警告するはずです。

 

特定秘密保護法(2013年)、安全保障法制(2015年)、そしてこの共謀罪法案。安倍首相の強権は、憲法改悪まで行きつくのでしょうか。これ以上暴挙を赦してはなりません。

 

2017年6月15日 森淳


フォーラムをめぐる人々―水元公園の政治談議

水元公園の政治談議

 

 

「文科省の前の事務次官、前川っての、結構骨のある奴らしいね。天下り問題で辞めさせられたけど、あれは人身御供だよ」
「そうさ、文科省の天下りなんか、経産省に比べれば可愛いもんだよ。前川にすれば、何で俺が、ってことだったんだろうな」
「今回の加計問題は、その敵討ちか。それにしても、安倍はひどいね。平気で嘘をつくからなぁ」
「政治への信頼が薄らぐよね。でも、支持率は高いままだよ。女房なんか、前川はいかがわしい所に出入りして、信用できないとさ。うちは読売だからなぁ」
「うちは毎日だよ。どうして読売なの?」
「昔からで、女房のお気に入り。うちのは読売しか読まない。俺はインターネットやるから、色々意見を言うんだけどね。読売が正しいと思ってんだね」

 

これは今日、水元公園の「書斎」で聞いた、年配の男性同士の会話です。隣のベンチから聞こえてくる会話も、時の政治状況を反映していて興味深い。読売新聞は5月22日、前川喜平前事務次官が出会い系バーに出入りしていたことを報じましたが、これはなりふり構わぬ官邸からのリークのよう。

 

新聞が政権の広報紙になったら終わりです。何百万部の読者を持つ新聞の責任はとりわけ大きい。今日の首相答弁も不誠実そのものでしたが、今朝の朝日新聞のコラムからゲーリングの言葉を引用することで、権力者の本音を忖度いたしましょう。ゲーリングはいうまでもまく、ナチスの国家元帥です。

 

「人々は指導者の意のままになる。『我々は攻撃されかけている』といい、平和主義者を『愛国心に欠け、国を危険にさらしている』と非難する。それだけで良い」

 

水元公園には花菖蒲が咲き出しました。自然はいいですね。心が安らぎます

 

2017年6月5日 森淳


フォーラムをめぐる人々ー水元公園の「書斎」

水元公園の「書斎」

 

 

今日は水元公園の「書斎」を約半年ぶりに木陰へ移動した記念すべき日でした。陽だまり、木陰、どちらで本を読もうかなぁ、と迷う頃が、一年でも一番快適な気候なのかも知れません。

 

葛飾区の水元公園は、市川市の我が家から江戸川を経て自転車で約30分。93haの広大な公園で、池あり、自然林あり、芝生の広場あり、キャンプ場あり、野鳥観察舎ありと、変化にも富んでいます。

 

カモ類は北に帰り(怠惰な?残留組のヒドリガモがあちこちに泳いではいますが)、今日はコアジサシの姿を見かけました。南の国からやって来たのでしょう。風に乗ってわた毛が一面に舞っています。

 

自然のなかで読書をする。これは何ものにも代えがたい、大いなる楽しみ。お金は要らないし、自転車での往復で150kcalのエネルギーを消費し、健康にもよろしいのです。

 

2017年5月12日 森淳
 



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