一般財団法人 知と文明のフォーラム

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書いた記事数:69 最後に更新した日:2018/09/23

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フォーラムをめぐる人々―6.10国会前行動

6.10国会前行動

 

 

いたたまれない思いで、国会前に行ってきました。風邪で喉が痛いし、雨が降っているし、どうしようかと迷いましたが、安倍と麻生、両大臣の顔を思い浮かべて、一念発起という次第です。

 

それにしても、日本の政治の劣化は目を覆うばかり。加計にせよ、森友にせよ、情報を総合すれば、安倍首相が関わっていることは誰の目にも明らかです。彼は先月末の国会で、「贈収賄ではまったくない。そういう文脈において、一切関わっていないと申し上げている」と述べましたが、これは本音でしょう。

 

つまり、自分は法を犯すようなことはしていない、だから潔白なんだ、と言っているのです。法律は倫理や道徳を裁くことはできません。ほとんどの人が間違っていると思うような行為であっても、法的根拠がなければ罰することができません。これは諸刃の刃ではありますが、安倍首相はこの事実を巧みに利用しています。

 

しかし政治家は、道義に反する行為をしていたならば、それがたとえ法律で罰されることがなくとも、政治家として失格のはずです。官僚の忖度もしかり。「一連の問題における〈関与〉がなくとも、〈忖度〉されるリーダーはそれだけで辞任に値する」と、豊永郁子早稲田大学教授は、ナチスを例に引きながら述べています(2018.05.19「朝日新聞」)。

 

集会の最後の挨拶は、2013年に過労死したNHK記者の母上、佐戸恵美子さんでした。娘を亡くした哀しさと無念さが、ひしひしと伝わってきました。「高度プロフェッショナル制度」も認めてはなりません。以下は彼女が、3月17日に新宿アルタ前で語った映像です。是非見てください。

 

 

2018年6月10日 森淳


フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その六

 

出稼ぎ、と聞くと自動的に反応してしまうのは、やはり育った時代と土地柄のせいだろうか。中卒の集団就職列車の光景がふと思い浮かんでしまう。そういう世代の原風景を見透かすかのように、パンフレットには、幼いと言っていいほどの娘の疲れて無防備に眠る顔と、その子の将来を案じるかのような、姉の憂いに満ちた表情がアップされている。

 

眠る娘の行きつく先は縫製工場がひしめく都会、つまり日本の安価な服飾製品を作っている場所だ。今、わたし(たち)の身を包んでいる衣服(の一部)を縫い上げてくれたのは彼女かも知れない。そう思うと、かつて日本の支配地域として日本の近代化のために利用された過去がそっくりそのまま持続しているような感覚を覚える。映画のパンフレットはその感覚をさらに後押しする。

 

彼ら、彼女らが故郷を遠く離れた都会の縫製工場に出稼ぎに行くこと、それを「苦い銭を稼ぎに行く」という。一日フルに働きに働いて、いったいどれだけの稼ぎになるのだろうか? アイロン掛けは、日本円にして時給が270〜300円だから、一日2500円ほどなのだろうか。ある若者は、要領の悪い自分は一日70元(ほぼ1200円)しか稼げない、と嘆く。これが苦い銭の相場らしい。

 

いうまでもなく、いかに苦かろうと、ともかく銭を稼ぎに故郷を離れなければならない現実がある。監督のワン・ビンには、同じ雲南省の山間部に暮らす貧しい三姉妹を扱った『三姉妹』がある。母親は家を飛び出し、父親は出稼ぎ、そして娘三人がボロボロの布団に寄り添って寝る、そんな暮らしである。子供たちは出稼ぎに行ける歳ではない。いずれ、苦い銭を稼ぎに行くことになるだろう。

 

ならば、出稼ぎの彼ら、彼女らは辛い労働に懸命に耐え抜いてゆくかというと、皆が皆そういうわけでもなさそうだ。パンフレットに映った少女の弟は、都会の労働に耐えきれず、すごすごと故郷へと帰ってゆく。最も印象に残ったシーンのひとつは、タクシーの窓越しに都会の光景を眺める、その少年のまなざしである。自責の念を抱え、おそらく二度と目にすることのない雑踏の風景を目に焼き付けようとしているかのようだ。きっと少年は、きつい労働を覚悟しながらも、村では味わえない楽しさを夢見てやって来ただろう。これから帰る村では、自分のふがいなさを白眼視する人々のいることを、少年は想像せずにはいられまい。パンフレットの右下の写真が少年その人である。

 

この少年のもろさと対照的に、夫と夫婦喧嘩をした若妻のしぶとさは見ものだ。何しろその夫婦げんかの凄まじさときたら、映画を観ているこちらの腰が引けるほどの大喧嘩。日本なら警察沙汰になりそうで、どのような破局の形を迎えるだろうか… と思っていたら、映画の最後はこの夫婦が何食わぬ顔してよりを戻している姿で、唖然としてしまった。

 

これぞ、中国!

 

むさしまる


フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その五

 

 

「海角七号」、これはどうやら地名らしい。岬7番地といったところか。台湾映画で歴代2位の観客動員数を誇る作品だ。いろんな条件が重なって大ヒットということのようだが、その条件ひとつに舞台が台湾最南端の町(つまり台北でない)ということがある。それを証明するように、映画の冒頭はオートバイにまたがる若者が「くそったれ台北!」という呪詛で始まる。

 

台北でミュージシャンとしての夢を果たせず都落ちする若者が、故郷の田舎で町おこしのバンドのメンバーになり、その町おこし企画のプロモーションに雇われた日本人の娘が紆余曲折の末、若者と心を通わせ合うというストーリーがメインだ。

 

そこにもうひとつサイド・ストーリーが加わる。第二次大戦終結時、現地台湾人(おそらく先住民族の娘)と恋仲にありながら終戦で別れ別れになった日本人高校教師の手紙を、60年後になって、教師の孫娘が台湾に送る。その手紙を配達する役が、先の都落ちする若者である。こうして、現代の恋愛と恋60年前のそれとが交錯する。

 

メイン・ストーリーの町おこしの話は新味に欠けるが、役者陣がなかなか充実している。興味深いのは、役者に先住民系の人が多いことだ。主人公の青年にしてからがそうである。その青年が冒頭で台北に反旗を翻す、そこらへんにも大ヒットの一因があるのかもしれない。

 

だが、どうも気になるのはこの第二次大戦終戦直後の描写で、ふと疑問が湧く。かつての日本と台湾の関係がこんな風に描かれていいだろうか? この映画監督は、植民地統治下で台湾先住民族を多数虐殺した霧社事件を知らないのだろうか? これとは似て非なる違和感をホウ・シャオシェンの傑作『非情城市』のなかで覚えたことがある。ヒロミの兄の友とされる日本人兵士が死を覚悟して残した言葉(きみがゆくなら、ぼくもゆく…というような語句だったと記憶する)には、危うさがつきまとう。

 

ついでにいえば、林家の長男がつぶやく「われわれ台湾人は哀れだ、日本の次は中国…」というとき、おそらく、その「われわれ」には台湾先住民族は入ってない。「海角七号」は、存在を無視されがちな先住民族を前面に押しだしただけでも、一定の意味がありそうだ。

 

 

むさしまる


フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その四

最初の映像は砂丘地帯を馬がゆく。馬上には黒い衣装の男、それと後ろに素っ裸の男の子。人を食ったような光景だ。やがて、とある村につく。村人はほとんど死んで、そこら中に死体がゴロゴロと転がっている。瀕死の男が一人いる、その男に向けて、くだんの裸の男の子が何のためらいもなく拳銃をぶっ放す。

 

万事がこの調子だ。映画の題名は『エル・トポ』。主人公の男はガンマンで、名うての名射撃手と果し合いをして拳銃の王者になるというのが一応の筋のようだ(ただし前半の)。とはいっても、筋などどうでもいい、というのがこの映画の売りだろう。個別のシーンをそのまま切り落として額縁に飾るにふさわしい場面ばかりが目白押しだから。

 

青い青い空、乾燥した砂丘、なぜかある小さな池、その中でパラソル片手の裸婦、ウサギの死体群、箱に両足を折り曲げて横たわる死体、両腕のない男と両足のない男… 今思い返しても、次から次へと映像がフィードバックする。とまれ、前半の最後は肉体的ハンディキャップを負った人々の一群が流れるシーンで終わる。

 

このハンディを負った人々(同一人物群ではない)が後半でも重要な役割を果たす。出だしは山の洞窟の中。そこは社会から隔離された、被差別者たち(ハンディを負った人々)の隠れ家だ。その被差別者のなかの若い女と、洞窟で瞑想する外来者の僧侶とが近くの町に出かけ、退廃した町でさまざまな珍場面に遭遇するのが後半の筋立てのようなものである。

 

ここでももちろん暴力が日常的に現れる、たとえば教会で、ロシアンルーレットのごとく、男の子が拳銃で自分の頭をぶち抜いたり、黒人奴隷が見世物娯楽のように馬に引かれて死んでいったりと。一方で、老齢の爛れたような娼婦群を筆頭とする退廃ぶりもすさまじい。

 

被差別者の若い女と僧侶は夫婦となり、洞窟から町へ抜ける穴を掘り始めるが、完成した穴から町へと殺到する被差別者の群れは町の住民に皆殺しになる。モグラのような彼らは陽の当たる世界では生きてゆけない。『エル・トポ』とは「モグラ」の意味だ。

 

この映画をトータルに論評することはむずかしい。とにかく、ある種の常識が破壊され、体のなかに眠っていた感覚が目覚めさせられる快感がある。暴力と退廃が通過した後に、未知の感覚に体を覆われているとでもいったらいいか。

 

むさしまる

 


フォーラムをめぐる人々―歳をとるのもいいものだ

歳をとるのもいいものだ

 

 

歳をとるのもいいものだ。こんな嬉しい感慨を覚える映画に出会うことができました。春日井市近郊のニュータウンで、野菜70種類、果物50種類に囲まれて暮らす老夫婦のドキュメンタリー、『人生フルーツ』です。

 

周りに何もない、まるで砂漠のようなニュータウンの造成地、その一角に300坪の土地を購入して50年。その土地は、雑木林となり、果樹園となり、畑となりました。ここで、まるで農夫のように暮らす主人公は、建築家の津幡修一さんと、妻の英子さん。90歳と87歳のご夫婦です。

 

食事はもちろん、農作業や大工仕事など、ほとんど他人の手は借りません。その徹底したエコライフに感心したのはもちろんですが、私は津幡さんの仕事との関わりに興味を覚えました。

 

彼は、日本住宅公団のエース建築士として、いま自らが住む高蔵寺ニュータウンを設計したのでした。可能な限り自然と調和させようとした彼のプランは、公団の合理主義・効率主義とは相入れません。大幅な修正を余儀なくされます。

 

高蔵寺ニュータウン内の彼らの土地と家は、公団の、というよりは、日本社会の、機械的効率主義への異議申し立てのような気がします。津幡さんは、息をひきとる直前、伊万里市の小さな医療福祉施設の設計を依頼され、はじめて思うような仕事ができた、と述懐するのです。設計料は受け取りませんでした。

 

「この人は、歳を重ねるごとにいい顔になってきたんですよ」と、英子さんは言います。柔和な表情で遠くを見つめる修一さんの顔は、夢を宿したいい顔です。そんな夫と60年余連れ添った英子さんの顔もまた、チャーミングでいい顔。歳をとるのもいいものだなぁ。ホントにそう思いました。

 

風が吹けば、枯れ葉が落ちる。
枯れ葉が落ちれば、土が肥える。
土が肥えれば、果物が実る。
こつこつ、ゆっくり。
人生、フルーツ。

 

樹木希林のナレーションも、また良かった!

 

2017年11月30日 於いて飯田橋ギンレイホール
監督:伏原健之
編集:奥田繁
撮影:村田敦崇
音楽:村井秀清

 

2017年12月7日 森淳


フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その三

こんな味わいの日は、そうざらにはあるまいなと思えるほど濃い時間を過ごした一日だった。台湾映画の7時間、そのあとビールと餃子を囲んで映画好き3人の映画評。帰りの電車のなかでは、人々の日本語が異国語に聞こえた。オレ、台湾人になったんやろか?

 

『非情城市』については、森さんに書いてもらったから、今回は『クーリンチェ少年殺人事件』にしぼりたい。でも一言だけ、主婦に戻ってスクリーンではもう出会えない、あのシン・シューフェンの不思議な風情とその風情をつつみこむメロディーの物憂げな美しさ、それと対照的な冒頭と最後の力強いリズム。こればかりは特筆しておきたい。歴史に翻弄される人々の、どっこいしぶとく生きますよ、と鼓舞するリズムなんだな、これが。

 

さて『クーリンチェ』、これはまた見事といえばあまりに見事な作品だ。語りたいシーンは多々あるが、わたしにとってのこの映画の印象はほぼ2点にしぼられる。すなわち「暴力」と「少女」。

 

まずは「暴力」だが、昭和世代としては、どこか中野電波高と朝鮮高校のすさまじい凌ぎ合いを彷彿とさせる。この暴力をブラジル映画の『シティ・オブ・ゴッド』と比べる人もいるだろうが、単純な比較はできないと思う。どちらも、植民地化を受けた国の少年たちの暴力ではあるけれども、混血社会である南アメリカの大都市のスラム街に巣くう暴力と、急激な近代化を余儀なくさせられた中国系台湾人の一般家庭の少年たちが抱える暴力とでは、位相がまったく異なるのではないのか?

 

『クーリンチェ』を支えているこの暴力の背景には、アメリカン・ポップスに代表される米文化の強大な影響力と半世紀にわたる植民地支配の残響たる日本家屋がある(と思える)。和風の四畳半の部屋で聞くプレスリー… まるで昭和の日本だ。それだから、米文化を象徴する野球バットと日本文化の残響たる日本刀が、映画のなかで象徴的な役割を果たしている気がしてならない。

 

もう一点の「少女」。映画のなかで「小明(シャオミン)」と名づけられた彼女は、何と形容しようか困惑するほど不可思議な女の子で、わたしにとっては「あの女の子」と匿名でしか表わしようのない抽象性をもっている。この抽象性を別の表現にすると、ある種のヴェールをまとっている、ともいえるし、リアリティの欠如、といってもいい。ともかく、彼女は“遠い”のだ。

 

目の前に居ながら手の届かぬあちら側に居るような、そんな少女を好きになった少年が相手を自分に引き寄せたいと思うとき、彼女を生身の人間として感じたいとき、少年に可能なこと。それは、彼女を包むヴェールを引きちぎって暴力的にこちら側に引き寄せること、つまり彼女の生暖かい血を流させることじゃないのか? その血が流れるのを感じたとき、少年にとって抽象的な「女の子」が初めて現実的は「僕の小明」になるのではないだろうか?

 

刺殺の決定的瞬間は、もちろん映画のクライマックスだ。たいていの映画ならスクリーン一杯に二人の顔がクローズアップされるところだろう。でも、ドン・ホセとカルメンのようにはいかない。遠景に映る二人の表情は判然としない。だから、観客であるわたしたち自身がその表情を想像するしかない。そして想像せずにはいられない。そんな風にわたしたち観客それぞれが自分の思い描く二人の表情を描くこと、それは二人になり替わることであり、主人公二人の生を生きること(部分的であれ)でもあるだろう。これも監督の仕業かと思うと、エドワード・ヤン、恐るべし!

 

むさしまる


フォーラムをめぐる人々―仲間と観る映画もいいものだ

仲間と観る映画もいいものだ

 


映画はひとりで観ることが多いのですが、昨日は映画好きの友人ふたりと一緒に鑑賞しました。台湾映画の名作、『非情城市』と『クーリンチェ少年殺人事件』です。評判の高い映画ながら、私は2作品とも観のがしていました。24日の1日だけ同時上映があるとN本さんから聞き、すぐチケットを買いました。そしてむさしまるさんに情報を伝えたところ、彼も迷うことなく購入したというわけです。ふたりとも、上映時間7時間という長さに恐れをいだきながら、ではありました。

 

仲間と映画を観る楽しみは、終映後のおしゃべりにあります。ああでもない、こうでもないと、作品について無責任にダベる時間がじつに楽しい。つまらない作品だと、いや、結構面白い作品でも、だいたいすぐに話題は拡散するものです。昨日の2作品はそういうわけにはいきません。語るべき内容が、あまりにも多いのです。これは、傑作である必須の条件でもあります。

 

まるでドキュメンタリーを観ているような臨場感。台湾の現代史を学ぶ糸口に満ちている。なによりも陰影深い映像が素晴らしい。2作品に共通する要素は多くあります。そうそう、音に対する感性の豊かさも。東京国立近代美術館フィルムセンター大ホールの音響は、嬉しいことに、まことにいいのです。

 

共通点は多いながら、この2作品は、ある意味で対照的な映画だと思いました。『非情城市』は、数多いエピソードが、じつに緻密に構築されている。音楽もそうで、ユーチューブから流れるメロディを聴くだけで(ユーチューブにアップされています)、映画のシーンが鮮やかに目に浮かびます。『クーリンチェ〜』は構築性をあえて無視することで、少年の思いもかけない殺人に、確かなリアリティを与えています。衝撃度は並ではありません。

 

『非情城市』のカットのひとつひとつは、まるで絵のように美しい。小津安二郎の影響を喧伝されるはずです。ヤクザの抗争という暴力場面が多いにもかかわらずです。たとえば、九份という山上の街に女主人公が登っていくシーン。急坂であるため輿に乗り、主人公のトニー・レオンがあとに従っています。背景には遠く海が広がる。そして、懐かしく、美しく、また強靭な音楽。この場面で、私はもうこの映画の虜になりました。

 

戦争が終わって日本人が去ったと思ったら、今度は本土から国民党がやってきた。台湾は50年間日本の支配下にあったわけですから、台湾の人たち(本省人)は中国本土の人たち(外省人)を相手に戦ったわけです。同じ漢民族でありながら。この矛盾は、戦後の台湾社会に深い影を落とします。1947年には、国民党(外省人)が本省人を弾圧・虐殺するという「二・二八事件」が起こります。本省人である主人公の一家は、この悲劇的な歴史に翻弄されることになります。

 

誰かがこの映画を「台湾版ゴッドファーザー」と評しました。確かに家長を中心としたヤクザ一家の物語でもあり、面白さにおいて言いえて妙。しかし、抒情性、歴史性、そして芸術性、どれをとっても、はるかに上質の映画であることは間違いありません。

 

もうひとつの傑作『クーリンチェ少年殺人事件』。これについては、一緒に鑑賞したむさしまるさんに語ってもらうことにいたしましょう。

2017年9月25日 森淳


フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その二

成田空港に巨大な飛行機が飛び交って久しいというのに、なんで今更?といぶかる人も多いだろうけれども、先週は『三里塚のイカロス』(代島治彦監督)を見てきた。観客はざっと見積もって十人、ほぼ同世代の人々だった。大学紛争以降、狭山裁判や成田闘争などがクローズアップされた頃に、血気盛んな青年期を迎えた世代だ。わたしの近辺では、政治の動きにそこそこ興味があれば、どちらかの集会に身を置いたことがある人も少なくないはず。


見終って、しばし茫然としてしまった。ちっちゃな箱庭のなかで、蟻んこのような自分が右も左もわからず、精一杯こぶしを突き上げて空港反対を叫んでいた… それも、すでに頭上をジャンボジェットが轟音をがなり立てているさなかに。


映画は、さる左翼セクトの現場責任者の自省のことばとその姿を映すシーンで終わる。「自分たちの方針は間違っていた」。こんな終わりかたでいいのだろうか?との疑念が胸をかすめる。その一方で、三里塚の農村に嫁いだ女性たちの、現地の文字通り土に根差した生活から生まれることばに、安堵とも言い切れないが少し慰撫してくれる吐息が漏れた。


リアルタイムの政治的運動の全体像をつかむことは本当にむずかしい。現場に行かなければ、運動の息吹は決して伝わらない。だけれども、現場だからこそ見えにくいこともある。懸命になればなるほど見えにくい。それを教えてくれたのがこの映画だった。


フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その一

先月観た中国映画は不思議な作品だったな。意味があるんだかないんだか、何が言いたいんだかさっぱり分からんのよ。そのくせ、あと後まで、映像ばかりがちらつく。例えば、中国の文革時代の下放されたいわゆるインテリの青年が、山のなかの小高い丘にある小学校の校庭で、荷車らしきものの上にちょこんと飛び乗る。背景は夕焼け風で青年の体のシルエットが人形のように浮かぶ。何だろ、これ? 意味を追い求めるわたしらは堕落した人間なのかもな、と思ったりする。

 

不思議はいっぱいある。もう一つ、どうもよく分からない音がある(実はいくつもあるんだけど)。あるシーンで、カポンカポンと音がする、池のなかに乾いた太い竹を何本か浮かべて、そいつらをぶつけているのかもなあ、と思わせる音響で、これも忘れられないなあ。

 

忘れてたけど、冒頭のシーンも忘れがたい(変だね、この書き方)。いい年のオッサンが結構な太さの竹の筒で煙草を、無言で、吸っている。そこに主人公らしき青年が登場し煙草をめぐんでもらう。言葉は一切なし。言語なんかで大切なことは伝わらないよ、といわんばかりなのだな、これが。

 

さて、何の映画でしょうか? ジャーン! 答えはチェン・カイコーの『子供たちの王様』でした。


フォーラムをめぐる人々ーぶらりと映画館

ぶらりと映画館

 

 

街のまんなかで、ふと真空の時間を持つことがあります。なんの予定もなく、時間がたっぷりあるという幸福な状態です。そんなときは、近くの映画館か美術館をぶらりと訪れるのが一番。ときに至福の時間を得ることができます。まったく予定していなかっただけに、その喜びにはまた格別の味があります。

 

今日、お茶の水での歯科の治療が終わったのが11時。雨が降っていて、予定していた自転車散歩もできません。このまま帰宅するのもなぁ、という気分になりました。そこで、飯田橋のギンレイホールを覗いてみることに。ここはいまでは珍しくなった2本立て上映の映画館です。たっぷり時間がある身には2本立てはたいへん有難い。しかも、映画館主催の方の眼は確かで、時間を無駄にしたという記憶はまずありません。

 

『タレンタイム』と『台北ストーリー』。後者はなんとなく中身が想像されますが、タレンタイム? いったい何語? どこの国の映画? このようにまったく予備知識ゼロ。窓口で配布された「ギンレイ通信」というミニ案内を読んで、これがマレーシアの映画だということをはじめて知りました。監督はヤスミン・アフマドという女性で、8年前、51歳という若さで亡くなっている。

 

タレンタイムとは、Tale in timeで、高校生の音楽コンクールのことでした。このコンクールを、マレー系、インド系、中国系……、様々な高校生が目指すという、いわば青春物語です。それぞれの学生にはそれぞれの家族があり、宗教もそれぞれ。それゆえに生じる矛盾やら悲劇やらを、ユーモアたっぷりに描きます。クスリと笑いながら観ていくうちに、マレーシアの複雑な社会のありようが、肌身に沁みて理解されます。

 

人種・文化・宗教の差、親子の葛藤、聾唖という障がいまでも、若者たちは乗り超えます。困難をともないますが、清々しいその生命力に、心からなる拍手をおくりました。こんな気持ちになる映画などそうあるものではありません。それに、全編に流れる多彩な音楽も聴きもの。インド系、中国系、フォーク調、ドビュッシーやバッハまでも!

 

ぶらりと映画館に入って、思わぬ拾いものをした。そんな幸せな一日でした。

 

2017年9月4日 森淳



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