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- 2020.04.21 Tuesday
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『サタンタンゴ』(監督タル・ベーラ)
ぐずつく空、ぬかるんだ地面、寒村の倉庫の薄汚れた壁… そんなモノクロームの映像が、文字どおり延々と、観ている者の感覚マヒを狙うかのように、続いてゆく。上映時間7時間18分。これは、わたし(たち)が慣れ親しんだ「時間」を解体する、解放感(と不安)に満ちた438分だった。
のっけから、カメラワークは右から左へと動く。いうまでもなく、時間的推移を示す通例の動きとは真逆だ。それを確認する如く、倉庫の壁に記された数字は105、104、103、という具合にひとつずつ数が減ってゆく。廃墟となった倉庫の華やかりし昔日を偲ばせようというのだろうか。だが、いつまでたっても往時が復活することはない。
時間は戻らない。戻らない代わりに繰り返す、あるいは、動かない。たとえば、ある男が野良に向かって放尿する後ろ姿のシーンがあるのだが、最初は少女が廃屋となった倉庫の2階から眺めるのに対し、2度目のシーンとなると、老医師が一回の窓から放尿男の後ろ姿を凝視する。同じシーンだから、実質的に時間は推移してない。少女にとっての眺める時間と老医師にとっての凝視する時間の質は同じではない、ということなのか。時間は幾重もの層になっているということなのか。
これと似た、時間にまつわる問いかけを誘うシーンが他にもある。同じ少女が、タンゴらしき音楽に合わせて男女が踊り狂っているホール内を、窓からのぞき込んでいる場面だ。最初のは、ホールをのぞく少女の正面の顔を、2度目はその後ろ姿だ。ホール内の踊りの時間とホール外の自然(木立に囲まれている)の時間は異なるのだろうか。それはともかく異色なのは、このシーンの踊りと音楽が延々同じものを反復する点である。さらに、この時間の滞留にくわえて、ホールの中には踊りまわる人々の喧騒を見ながらも、硬直したように不動の姿勢をとる人物が複数いる。彼らには生きていることを証明する動きはまったく、ない。時間が流れているようで流れてない。このホールは、生の空間だろうか、それとも死の空間だろうか。酔って同じ踊りを繰り返す男女はさながらダンス・マカーブルのごとくで、いっそ不気味でさえある。じつは、のぞき込んでいた少女は、このダンスに魅入られたかのように、いずれ死の世界に赴くのだが…
こうして、映画『サタンタンゴ』に没入している観客は時間感覚を奪われてゆく。その行き着いた先に開けるのが、写真のごとき光景である。ぬかるんだ田舎道を三人の男が遠ざかる。終始後ろ姿だ。時間は去るのだから。三人の後ろ姿が少しずつ、遠近法のヴァニシング・ポイントに向かうように、縮小してゆく。
ある不思議な感覚が訪れたのは、このときだ。豆粒のように見えてゆく後ろ姿は豆粒が小さくなればなるほど、時間の流れない静止画像に似通ってゆく。時間が流れているのか、止まっているか。そんな宙ぶらりんの不確かな感覚の中で、突如として、三人の後ろ姿を取り囲む背景が、今まで経験したことのない、まったく意味をもたない単なるモノとしての「風景」として迫ってきた。
三人の姿が点に近くなると時間の推移はほぼ感知できなくなる。つまり物語はほとんど停止し物語としての機能を失う。それはとりもなおさず物語の意味の喪失であり、物語を支える背景も意味のない「風景」となって……などと考えてみたが、こういうのは後付けの屁理屈かもしれない。確かな感覚として今でも残っているのは、後ろ姿を見つめることに疲れて、何とはなしに背景をながめ、また後ろ姿に戻り、飽きて背景を…と中心と周縁を行ったり来たりしている自分の視線の動きにうんざりしたことだ。そんな往復運動を繰り返しているうちに、<どこにも焦点を合わせない曖昧なまなざし>が思いもかけぬ引力をもって、無色透明のどこにもない「風景」をたぐり寄せたのかもしれない。
とにもかくにも、招いても来てくれそうにない「風景」があちらからやってきたことには、僥倖というか廻り合わせの不思議さを感ぜずにはいられない。『サタンタンゴ』に、多謝!
むさしまる
慰安婦問題の本質を考える
「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」の中止は残念でした。芸術監督が津田大介氏だっただけに、もう少し頑張ってほしかった。電話やネットでの攻撃の有効性を認めてしまう結果になったのは、無念というほかありません。津田さんも同じ思いであるのでしょうが。
問題のひとつは、韓国の慰安婦をモチーフにした作品「平和の少女像」であったわけですが、慰安婦像はある意味で、かつての日本の戦争を考えるうえでのリトマス試験紙のような気がします。映画『主戦場』を観て、その思いはいっそう強くなりました。
慰安婦の少女像は、きりりと未来を見つめ、清潔で強さを秘めた表情をしています。「平和の少女像」と解釈した韓国人彫刻家夫妻の気持ちはよく分かりますし、私は「人間の尊厳と人権の象徴」ではないかとも考えたりします。そして「日本の植民地主義の象徴」としかとらえられない人たちは、この慰安婦像を嫌悪します。
ドキュメンタリー『主戦場』をつくったミキ・デザキという日系人は、慰安婦問題がよく分からなかったといいます。それで、論争の渦中にいる人たちを訪ねてインタビューを重ねた。上智大学大学院の卒業制作という名目もあったためか、左右の論客ともじつに率直に意見を述べています。その内容もさることながら、語る主体の人間性も垣間見られるのは、映像の強みでしょう。この点でも歴史修正主義者たちは分が悪い。
私がこの映画を評価する理由のひとつは、慰安婦問題の複雑化の背景に、韓国社会を通底する儒教思想があるのではないかと、問題提起している点です。慰安婦の証言はときに矛盾して信用できないといわれますが、その裏には、女性の純潔を絶対とし、さらには強固な女性蔑視の考えがあるといいます。それに、自分を犠牲にして家族に尽くすという考えも、慰安婦を生んだ土壌ではないかという、パク・ユハ教授の発言も紹介しています。
いずれにしても、日本の軍隊と仲介業者は、そのような儒教思想をも利用して、韓国の若い女性を慰安婦として徴用した。「強制連行」の証拠はないと日本の政府はいいますが、都合の悪い書類は焼却しています(70%の書類は焼いたという証言もあります)。慰安婦はお金をもらっていた、映画や買い物を楽しんでいた、そんな奴隷がありますか、と杉田水脈議員は言いますが、それもすべて監視下でのことです。自由のない「性奴隷」であったことは紛れもありません。
あと印象的だったのは、歴史修正主義者たちの人種差別意識です。嘘について、嘘をつく方が悪いと考えるのが日本人で、騙される方が悪いと考えるのが韓国人や中国人だといいます。倫理観が高い日本の軍隊が悪いことをするはずがない、というおそろしくずさんな論理思考にいきつきます。デザキは嘘に関して韓国で街頭インタビューをして、嘘をつく方が悪いに決まっているという何人かの若者の回答を紹介しています。総じて、歴史修正主義者たちの感情的な非論理性が目立ちます。彼らの発言に説得力がないのは当然のことだと思います。
映画の最後でデザキは、次のように警告します。慰安婦像を嫌悪する歴史修正主義者たちの背景には日本会議があり、そのメンバーやシンパが現政権の主流を形づくっている。彼らが進める再軍備はアメリカの戦争との共闘にいきつく。日本は、いまそんな危険な道を歩みつつあるのだ、と。
2019年8月9日 於いてUPLINK吉祥寺
2019年 アメリカ映画
監督:ミキ・デザキ
脚本:ミキ・デザキ
製作:ミキ・デザキ、ハタ・モモコ
ナレーター:ミキ・デザキ
音楽:オダカ・マサタカ
撮影:ミキ・デザキ
編集:ミキ・デザキ
2019年8月10日 森淳
「内閣情報調査室」は政府の謀略機関か?!
「ハンセン病家族訴訟 控訴へ」。これは今日(7月9日)の朝日新聞朝刊の一面の大見出しです。「元ハンセン病患者の家族への賠償を国に命じた熊本地裁判決について、政府は控訴して高裁で争う方針を固めた」と記事にあります。
ところが同紙夕刊の一面の大見出しには「ハンセン病家族訴訟 控訴せず」。つまり、朝刊の記事は、近来まれな大誤報であった訳です。「誤った記事、おわびします」との見出しで、謝罪の文章も一面に載っています。
朝日新聞は政府にガセネタをつかまされたなのではないか、という印象を私は持ちました。これは、今日観た映画『新聞記者』の影響です。この映画には、政府が「内閣情報調査室」を通して、様々な謀略をめぐらす実態が生々しく描かれています。朝日新聞はいうまでもなく安倍首相の天敵。新聞社にとって誤報ほど不名誉なことはありません。一番大切な信用が失墜するのですから。
映画には、前川喜平元文科事務次官の「出会い系バー通い」リークも描かれています。政府を批判する者に対しては、その人の信用を失わせるのが一番手っ取り早い。じつに安易で効果的な手法です。総理べったり記者による伊藤詩織さんへの性的暴力事件のもみ消しも登場しますが、これも巧みに伊藤さんを中傷します。伊藤さんの行動には政治的な背景があるのだと。そしてハイライトは加計学園問題です。新潟市に端を発する獣医学部設置の真の目的は、生物兵器の研究ではないかと問いかけています。
もちろん映画はフィクションで、上記の事件も実名では出てきません。しかし誰が観ても現実を想起するし、権力の空恐ろしさを実感するはずです。「この国の民主主義は形だけでいいんだ」。内閣情報調査室のトップの官僚がうそぶくこの言葉こそ、現政権の本質を物語っているような気がします。
前川喜平氏やこの映画の原案者望月衣塑子氏らが参加する座談会の実映像を挿入するなどしてリアリティ十分。出演者も熱演で、観ごたえのある政治映画になっています。この種の映画には珍しく興行成績がいいのだそう。UPLINK吉祥寺も98の座席はほぼ満席でした。
2019年7月9日 於いてUPLINK吉祥寺
2019年日本映画
監督:藤井道人
脚本:詩森ろば、高石明彦、藤井道人
原案:望月衣塑子
製作:河村光庸
出演:シム・ウンギョン、松坂桃李、高橋和也、田中哲司、北村有起哉
本田翼、西田尚美
2019年7月9日 森淳
『シークレット・サンシャイン(密陽)』(監督イ・チャンドン)
これはもう、ひたすらラストシーンを語りたい作品だ。
どこにでもころがっている、しもた屋風の家の庭先。そこにある台に鏡を置いて、パンプスをはいたワンピース姿の女が椅子にすわって自分の髪を切り始める。感情を忘れたような、あるいは、放心したような顔で。そこへ、庭の奥の扉を開けてジャケット姿の男が、照れくさそうな笑みを湛えて、「お邪魔虫でしょうか」と問いたそうな感じで入ってくる。男は、女が見やすいようにと、鏡を両手でもってやる。ちょうど男のお腹の部分に鏡が位置している。鏡に女の髪を切る無表情な顔が映る。男の笑顔がなければ、抱えた鏡はまるで遺影のようだ。
切られた髪の毛が地面に落ちる。カメラはその髪がそよぐ風で流される後を追う。流される先には、プラスチックの盥やら、洗濯機のホースの残骸、廃材の片割れらが雑然と無機質に散らばっている。その寒々とした光景のなかに、スローテンポの物悲しいテーマ音楽が流れて映画は終わりを告げてゆく。
詩情のかけらもないこの庭先の光景とは、いうまでもないだろうが、主人公の女の心象風景である。彼女の心は荒廃している。彼女の内面が破壊されてゆく物語、それがこの映画の筋立てというわけだが、彼女の抱える闇はこんな理由による。
彼女は夫に先立たれたばかりか、転居した夫の故郷で幼い息子までも失う。それも自分に岡惚れした学習塾教師による誘拐殺人の犠牲者として。そんな不条理な運命の痛みのなかでイエス信仰を知り少しずつ傷が癒え始め、加害者を慰めるべく収監されている刑務所を訪問する。ところが、刑務所で同じくイエス信仰に目覚め「充実した」生活を送っているもと学習塾教師の「神はわたしを許したもうた」という一言が、彼女をさらなる奈落に引き落とす。自分が許すよりさきに神に許された男の福々しい顔とは正反対に、こうして彼女は神なき世界を死んだように生きることになる。
話をラストシーンに戻すと、こんな境遇の彼女を知っている者には、鏡が遺影のように見えても不思議はない。ただし、鏡を抱いている男の笑顔があるから、遺影にはなるかどうかは微妙なところだ。じつは、この男もまた彼女に身もふたもなく惚れ込んでいる。したがって彼女に尽くして尽くしぬくのだが、彼女がその熱意に応えることはない。お人よしの田舎者でちょっと鈍感、かといって人の心の痛みには繊細に感応する男なのだが、彼の好意はいつもほんの少しピントがズレてしまう。そのズレの醸し出す滑稽さと切なさ、そして男の純朴な誠実さが、暗さ一方のこの物語に絶妙の味つけをあたえ、ほのかな希望を垣間見させてくれる。
『オアシス』と並ぶ、巨匠イ・チャンドンの必見映画である。
むさしまる
飯舘村は安全か——村民伊藤延由さんの報告
福島県の飯舘村は、原発から30km離れています。事故があった4日後、海に向かって吹いていた風が北西向きに変わりました。そして雪が降り始める。こうして、飯舘村に放射性物質が大量に蓄積され、全村避難ということになったのでした。
しかし、5年かけて汚染物質を取り除き、2017年3月には避難指示解除となりました。小中学校一体の立派な校舎も建てられて、着々と復興が進んでいる。原発被災地のなかでも、飯舘村は復興のシンボルであったように思います。私も、村在住の伊藤延由さん(1943年生)の話を聞くまでは、そう思っていました。
伊藤さんは、事故後早々、測量器で記録をつけはじめたのです。除染を行った道路や民家付近、畑はもとより、川べりや林や山など、可能な限り満遍なく数値を残しました。そして、飯舘村に避難指示解除を出したのは間違っている、という結論に達したのです。道を歩く子どもたちは、至る所から高濃度の放射性物質に晒されている! 私は仰天しました。
事故前の飯舘村は、人口6500人の緑豊かな村でした。それが、2018年12月1日現在、958名だそうです。避難指示が解除されて1年以上経っているにもかかわらず、ほとんどの人は村に戻っていません。村の現状の危険性を肌身に感じているからでしょう。避難指示解除の条件の第1が、年間積算線量20ミリシーベルト以下というとんでもない数字ですから、村民が懐疑的になるのは当然です。一般的には1ミリシーベルト以下でしょう。
3100億円もの大金を投じて、全村の約4分の1の面積を除染したにもかかわらず、たとえば伊藤さんの年間被爆量は2.7ミリシーベルトです(2017年)。村内にいた時間は65.1%。そのうち屋外にいた時間はたったの3%です!(村外にいた時間は34.9%)。屋外で1日中活動するとすれば、いったいどれほどの被爆を受けることでしょう。とりわけ子どもは危険です。
土壌の汚染は深刻だという印象を受けました。未除染の土壌、たとえば長沼地区の農地は36110ベクレル/kg(0〜5cm、2017年4月1日)。小宮地区の宅地は18187ベクレル/kg(0〜5cm、2017年8月)。事故前は10〜20ベクレル/kgです。飯舘村はいまだに危険な放射性物質に取り囲まれているといっても過言ではありません。
伊藤さんは、自らを人体実験としながら、原発の危険性を訴えています。また、損害賠償を4年間で打ち切られたことに対して、東電を相手に訴訟を起こしています。東電は加害者であるにもかかわらず、様々な形で国から救済を受けていますが、このことに対しても、強い憤りを覚えていました。次々に再稼働される原発をいかにして止めることができるのか、私たちの姿勢も問われています。
冒頭の写真は伊藤さんのツイッターより。伊藤さんは毎日被爆量を測っています。これは12月22日の被爆量(終日村内、未除染の山林で20分程、除染済み農地、宅地で1時間)。
2018年12月15日 風行社セミナー
「原発事故が飯舘村にもたらしたもの——事故から7年半の記録」
2018年12月28日 森淳
台湾の映画監督侯孝賢(ホー・シャオシェン)の作品中でいちばんのお勧めは、と問われたら、ためらうことなく「非情城市」と答える。今まで観た台湾映画のなかでは屈指のものだ。けれども好きな昨品は、と聞かれたら、たぶん「戀々風塵」とつぶやくだろう。主演女優シン・シユウフェンのたたずまいに心揺さぶられるのが第一の理由だ。
女優シン・シユウフェンは「童年往時」にも「ナイルの娘」にも「非情城市」にも登場する。けれども、わたしにとっての彼女の魅力は「戀々風塵」のアフン役に尽きる。そりゃあなるほど、「非情城市」で演じるヒロミは柔らかさと落ち着きを感じさせて、ほんわりと穏やかな気持ちになる。けれどアフン役のぎこちなさの残るあれやこれやの表情には、田舎から都会に出てきた若者の世慣れぬうぶさと不安が立ちこめていて、思わず寄り添いたくなるような共感を呼ぶ。
その不安を切り取ったワンショットが写真の彼女だ。場所は首都台北。一年早く上京した近所の先輩アワンが出迎えにくるはずの駅のプラットホームに、アワンの姿をさがす彼女の制服姿がある。手にもつ袋には、アワンの祖父が栽培したサツマイモが入っているはずだ。クリッとした瞳の田舎娘まるだし。どうも素人っぽい。それもそのはず、演じる彼女は台北市内で侯孝賢監督に映画出演を誘われてからさして時間がたっていない。この監督のすごさは、そんな女優の素人臭さを生かして、幼馴染の相手への言葉にできぬ、都会生活の寂しさの入り混じった慕情を、控えめに表現しているところだろう。
その控えめな表現の間接的映像の見事さが、理由の第二になる。その代表的シーンは、仕立て屋に勤めたアフンに、しばらくぶりにアワンが訪ねてくる場面だ。ちょうど田舎から妹の手紙がアフンに届く。寂しくて泣き暮らしていたこのアワンに笑顔が戻る。そして、読んだ手紙をアワンに渡す。黙読するアワン。テーマ音楽が流れる。そこから映る映像は、台北の商店の看板と、そのうえに広がる、電線越しのアオ・ゾラ(青空)だ!
この青空を、アフンの心に浮かぶ、そしてそれに思いを馳せるアワンの、心の風景といわずして何といおうか。
「青春四部作」と称される、こんな映像を撮った侯孝賢のボックスを貸してくれたのは、今は亡き尾河直哉である。
謝謝、尾河。
むさしまる
今年も新宿に「台湾映画祭」がやってきた。
去年は、午前10時開始の侯孝賢の「戀々風塵」を眠い目をこすりながら観たっけ。観客も15人程度だった。ところが今年はどうだ、回数券まで買って勇んで出かけた初回は、満員御礼で入場不可! その腹いせに(というほどではないのだが)、予定になかった映画「藍色夏恋」に足を運んだ。
災い転じて福となすとはこのことだろうか、予想をはるかに上回る映画の出来映えだった。原題は「藍色大門」で、藍色は中国語で青色のこと。つまりは青春の門というわけだ。主演女優はグイ・ルンメイ、主演男優はチェン・ボーリン、どちらも監督(イー・ツーイェン)が街頭でスカウトした新人だという。二人の初々しさもひとつの見どころである。そういえば、上記「戀々風塵」の主人公二人も街で抜擢された若者だった(その後まもなく二人とも映画界を去っているが)。
忘れられないシーンはいくつかあるが、その印象を少しでも納得してもらうには、舞台背景を少し知らなくてはなるまい。
女子高校生のモンとリンは親友。リンは同学年のチャンに惚れていながら告白できないため、親友のモンに橋渡し役を依頼する。ところがチャンは誤解する、橋渡し役は口実で本当はモンが自分を好きなのだと。そして、次第にモンに惹かれてゆく。チャンはモンに告白する。しかしモンの答えはノーだ。「わたしは男に興味ない、同性のリンが好きなの…」
さて、脳裏にこびりついたシーンをひとつふたつ。ひとつは、モンとリンが踊る場面。リンが大好きなチャンの顔の似顔絵を描き、それをお面にしてモンが被り、リンと手を組みゆっくりと踊る。モンの演じるチャンがリンのうなじ近くにしだれかかる、いつか、そのお面の男が自分に恋するとも知らずに… お面の下の素顔のモンはどんな表情をして踊っているのだろうか? 繰り返すが、モンはリンに対して友達として以上の、ちょっと危うい情愛を抱いている。青春期にある同性間、異性間の微妙な色合いの感情描写がこの映画の出色だ。
もうひとつのシーンは、一部パンフレットに映っている。台北と思われる都市の街路樹の下を自転車で走る姿だが、但し書きがいる。グイ・ルンメイ演じるモンが笑顔を浮かべるのはこの前後だけで、それ以外は映画中の彼女の表情は一貫して硬い。苛立ったような頑なさで男子から防御壁を張っているように見える。浜辺でエイトビートの音楽に合わせて体をゆするシーンでいくらか表情を緩めることはあっても、笑うことは皆無だ。おそらく、映画全編はこの笑顔にいたるための序奏である。
破顔一笑となったのはなぜか。その答えは、直前のチェンのセリフにあるらしい。男は好きでない、というモンに対して彼はいう。「いつか男を好きになってもいいと思ったときは、一年後でも三年後でもいいから、オレに最初に連絡してくれ」 自分の感情に最大限の敬意を払ってくれる人間がいることの安心感、この安らぎこそが彼女の呪縛を解いたのではなかったか…
ここで、モンの笑顔を支える背景の美しさを言い添えておかなければならない。都会の街路樹の下を疾駆する男と女の自転車、と書けば、なんとはなしに映像的な想像が働くと思う。けれども牧歌的な美しさとは少し違う。二人の自転車の脇にはほかの高校生の自転車やら、バイクにまたがった兄チャンやら、タクシーやら路線バスやらが、これぞ雑踏といわんばかりにひしめいている。何とかまびすしい美しさか! ただし、流れる音は単旋律のピアノとモンのモノローグでむしろひそやか。
「台湾青春映画史に燦然と輝く…」とのキャッチコピーは誇張じゃない。
むさしまる
6.10国会前行動
いたたまれない思いで、国会前に行ってきました。風邪で喉が痛いし、雨が降っているし、どうしようかと迷いましたが、安倍と麻生、両大臣の顔を思い浮かべて、一念発起という次第です。
それにしても、日本の政治の劣化は目を覆うばかり。加計にせよ、森友にせよ、情報を総合すれば、安倍首相が関わっていることは誰の目にも明らかです。彼は先月末の国会で、「贈収賄ではまったくない。そういう文脈において、一切関わっていないと申し上げている」と述べましたが、これは本音でしょう。
つまり、自分は法を犯すようなことはしていない、だから潔白なんだ、と言っているのです。法律は倫理や道徳を裁くことはできません。ほとんどの人が間違っていると思うような行為であっても、法的根拠がなければ罰することができません。これは諸刃の刃ではありますが、安倍首相はこの事実を巧みに利用しています。
しかし政治家は、道義に反する行為をしていたならば、それがたとえ法律で罰されることがなくとも、政治家として失格のはずです。官僚の忖度もしかり。「一連の問題における〈関与〉がなくとも、〈忖度〉されるリーダーはそれだけで辞任に値する」と、豊永郁子早稲田大学教授は、ナチスを例に引きながら述べています(2018.05.19「朝日新聞」)。
集会の最後の挨拶は、2013年に過労死したNHK記者の母上、佐戸恵美子さんでした。娘を亡くした哀しさと無念さが、ひしひしと伝わってきました。「高度プロフェッショナル制度」も認めてはなりません。以下は彼女が、3月17日に新宿アルタ前で語った映像です。是非見てください。
2018年6月10日 森淳
出稼ぎ、と聞くと自動的に反応してしまうのは、やはり育った時代と土地柄のせいだろうか。中卒の集団就職列車の光景がふと思い浮かんでしまう。そういう世代の原風景を見透かすかのように、パンフレットには、幼いと言っていいほどの娘の疲れて無防備に眠る顔と、その子の将来を案じるかのような、姉の憂いに満ちた表情がアップされている。
眠る娘の行きつく先は縫製工場がひしめく都会、つまり日本の安価な服飾製品を作っている場所だ。今、わたし(たち)の身を包んでいる衣服(の一部)を縫い上げてくれたのは彼女かも知れない。そう思うと、かつて日本の支配地域として日本の近代化のために利用された過去がそっくりそのまま持続しているような感覚を覚える。映画のパンフレットはその感覚をさらに後押しする。
彼ら、彼女らが故郷を遠く離れた都会の縫製工場に出稼ぎに行くこと、それを「苦い銭を稼ぎに行く」という。一日フルに働きに働いて、いったいどれだけの稼ぎになるのだろうか? アイロン掛けは、日本円にして時給が270〜300円だから、一日2500円ほどなのだろうか。ある若者は、要領の悪い自分は一日70元(ほぼ1200円)しか稼げない、と嘆く。これが苦い銭の相場らしい。
いうまでもなく、いかに苦かろうと、ともかく銭を稼ぎに故郷を離れなければならない現実がある。監督のワン・ビンには、同じ雲南省の山間部に暮らす貧しい三姉妹を扱った『三姉妹』がある。母親は家を飛び出し、父親は出稼ぎ、そして娘三人がボロボロの布団に寄り添って寝る、そんな暮らしである。子供たちは出稼ぎに行ける歳ではない。いずれ、苦い銭を稼ぎに行くことになるだろう。
ならば、出稼ぎの彼ら、彼女らは辛い労働に懸命に耐え抜いてゆくかというと、皆が皆そういうわけでもなさそうだ。パンフレットに映った少女の弟は、都会の労働に耐えきれず、すごすごと故郷へと帰ってゆく。最も印象に残ったシーンのひとつは、タクシーの窓越しに都会の光景を眺める、その少年のまなざしである。自責の念を抱え、おそらく二度と目にすることのない雑踏の風景を目に焼き付けようとしているかのようだ。きっと少年は、きつい労働を覚悟しながらも、村では味わえない楽しさを夢見てやって来ただろう。これから帰る村では、自分のふがいなさを白眼視する人々のいることを、少年は想像せずにはいられまい。パンフレットの右下の写真が少年その人である。
この少年のもろさと対照的に、夫と夫婦喧嘩をした若妻のしぶとさは見ものだ。何しろその夫婦げんかの凄まじさときたら、映画を観ているこちらの腰が引けるほどの大喧嘩。日本なら警察沙汰になりそうで、どのような破局の形を迎えるだろうか… と思っていたら、映画の最後はこの夫婦が何食わぬ顔してよりを戻している姿で、唖然としてしまった。
これぞ、中国!
むさしまる
「海角七号」、これはどうやら地名らしい。岬7番地といったところか。台湾映画で歴代2位の観客動員数を誇る作品だ。いろんな条件が重なって大ヒットということのようだが、その条件ひとつに舞台が台湾最南端の町(つまり台北でない)ということがある。それを証明するように、映画の冒頭はオートバイにまたがる若者が「くそったれ台北!」という呪詛で始まる。
台北でミュージシャンとしての夢を果たせず都落ちする若者が、故郷の田舎で町おこしのバンドのメンバーになり、その町おこし企画のプロモーションに雇われた日本人の娘が紆余曲折の末、若者と心を通わせ合うというストーリーがメインだ。
そこにもうひとつサイド・ストーリーが加わる。第二次大戦終結時、現地台湾人(おそらく先住民族の娘)と恋仲にありながら終戦で別れ別れになった日本人高校教師の手紙を、60年後になって、教師の孫娘が台湾に送る。その手紙を配達する役が、先の都落ちする若者である。こうして、現代の恋愛と恋60年前のそれとが交錯する。
メイン・ストーリーの町おこしの話は新味に欠けるが、役者陣がなかなか充実している。興味深いのは、役者に先住民系の人が多いことだ。主人公の青年にしてからがそうである。その青年が冒頭で台北に反旗を翻す、そこらへんにも大ヒットの一因があるのかもしれない。
だが、どうも気になるのはこの第二次大戦終戦直後の描写で、ふと疑問が湧く。かつての日本と台湾の関係がこんな風に描かれていいだろうか? この映画監督は、植民地統治下で台湾先住民族を多数虐殺した霧社事件を知らないのだろうか? これとは似て非なる違和感をホウ・シャオシェンの傑作『非情城市』のなかで覚えたことがある。ヒロミの兄の友とされる日本人兵士が死を覚悟して残した言葉(きみがゆくなら、ぼくもゆく…というような語句だったと記憶する)には、危うさがつきまとう。
ついでにいえば、林家の長男がつぶやく「われわれ台湾人は哀れだ、日本の次は中国…」というとき、おそらく、その「われわれ」には台湾先住民族は入ってない。「海角七号」は、存在を無視されがちな先住民族を前面に押しだしただけでも、一定の意味がありそうだ。
むさしまる