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    楽しい映画と美しいオペラ――その49

    • 2013.09.08 Sunday
    • 21:44
    「岸壁の母」と「鳳仙花」――演歌と兄の死

     私は、この7月に石川さゆりの「天城越え」を聴くことによって、突然演歌に目覚めることになった。それまでもっとも苦手としていた演歌が、なぜそれほどまでに私の心をとらえるにいたったのか。ひとことでいうなら、物語の世界を音楽で表現するという形式として、オペラに近いものを感じたのである。しかも、たった4分間の楽曲が、2時間のオペラに匹敵する!という実感をもった。それに演歌は、誰もが自分で歌うことができる。これは、オペラに勝る強みであろう。

     いっぽう、日本のポピュラーミュージックには、Jポップなど他の分野のものもある。これについても私はいっこうに不案内で、云々する資格はまったくないのだが、少なくとも私には、演歌の方が身近に感じられる。日本人としての私のこころに訴えてくる力が違うのだ。私が歳を重ねたこととも関係がありそうだが、演歌は、父がよく聴いていた浪曲とも関連が深い。考えてみれば、私の音楽体験の原点は浪曲にあるようだ。ラジオから流れてくる広沢虎造の声は、いまでも耳の奥に聴くことができる。

     浪曲はいうまでもなく、文楽の義太夫節を源流のひとつとしている。三味線の伴奏で物語を語るという形式は義太夫節そのものである。もっとも義太夫節の三味線は、浪曲におけるそれに比べて、はるかに位置づけは高い。語りの太夫とほとんど匹敵するくらいの重要性をもっているのだから。ともあれ演歌は、私がこのところ傾倒している文楽とも深い関わりがあるのだ。

     話は変わるが、今年の2月に他界した私の兄は演歌が好きであった。政治信条から生き方、趣味にいたるまで、まったく正反対であった兄とは、日常それほどの付き合いがあったわけではない。それで、葬儀に出席して、私の知らない彼の一面に触れて少し驚いた。3人の方の弔辞には真情が溢れていて、兄の素顔の一端を知ることができたのだ。祭りなど賑やかなイベント好きの彼が、その催しの過程で、どのように細やかに人と接したか、地域の人と人のつながりをいかに大切にしたか――葬儀の間に流れていたのは、カラオケ好きだった兄が自ら歌った「岸壁の母」であった。母と息子の間の、断ち切りがたい真情を切々と歌ったこの曲こそ、演歌の真髄なのかもしれない(詞=藤田まさと、曲=平川浪竜)。

     私はいま、島倉千代子の「鳳仙花」を練習中である。この歌は、兄とたった一度だけカラオケ酒場に行ったとき、彼が歌った曲である。「鳳仙花、鳳仙花……」と歌われるフレーズが印象的だったし、高音が軽やかに伸びる彼の歌はじつにうまかった。曲名は隣席の姉に教えてもらった。ささやかな幸せを祈る庶民の想いを、街の片隅に咲く鳳仙花に託した名曲だが(詞=吉岡治、曲=市川昭介)、なんとか兄のレベルで歌えるようになりたいと思う。それが、せめてもの兄への供養だろう。

    2013年9月1日 j-mosa

    楽しい映画と美しいオペラ――その48

    • 2013.09.02 Monday
    • 16:41
    日本のオペラに未来はあるか?――香月修《夜叉が池》をめぐって


    このコラムは、映画やオペラから受ける感動を伝えることを目的としている。故に、私の心を何事もなく通り過ぎた作品や上演については、ここに記すことはない。残念ながら、まずはほとんどがその類いの作品・上演なのだが。

    今回とり上げる香月修氏作曲のオペラ《夜叉が池》(6月28日新国立中劇場)は、以上の基準からするとまったくの例外。むしろ不満が先に立つ上演だった。従ってここでの私の興味は、自らの心の動きではなく、この上演をめぐる新聞紙上の評価にある。

    7月1日の朝日新聞には、新聞の音楽評には珍しく、辛辣極まりない評が出た。まるで120年も前の、凡庸で時代錯誤的なオペラ、このような作品に国が金を出すのは問題ではないか、とまあ、つづめていえばこんな主旨(評者は長木誠司氏)。この作品は新国立劇場の委嘱作品なのである。

    ちょっと過激な評なので印象に強く残ったのだが、共感するところが多かった。この上演を観た帰り、友人とさんざん不満をぶちまけ合ったのである。ワーグナーに倣った、まるで19世紀のオペラではないか、舞台も竜宮城で、泉鏡花の幻想性にはほど遠い、云々。個人の欲望と村人全体の安全、つまり公私の間ののっぴきならない対立という、普遍的なテーマも内包した魅力的な題材だけに、私たちの失望は大きかった。

    ところが、この朝日新聞の評が出た翌日、日経新聞にはまるで逆の評が出た。「現実と幻想、和風と洋風とが入りまじる鏡花の妖異世界を再現して、オペラの音楽とドラマが高い完成度を示した」と、驚くほどの高評である。新国立劇場の財産となるプロダクションとなろう、とまで書いている(評者は山崎浩太郎氏)。じつはこの記事、日経をとっている友人がFAXをくれたのだ。オペラ《夜叉が池》を褒めている評者がいる!と驚いて。

    私は朝日の評を読んで、やはり《夜叉が池》は失敗作だったのだと実感したのだが、日経のオペラ好きの読者でこの作品を観なかった人は、無念の思いをかみしめたことだろう。音楽に限らず、芸術に関する批評は難しい。評者の主観の割合が大きいからだ。文学も含めて、「実感批評」を克服することは永遠のテーマでもあろう。

    現代オペラに関しては、たとえばベンジャミン・ブリテンの《ピーター・グライムズ》は、人間の孤独を表現して恐ろしいばかりだし、ジョン・アダムスの《ドクター・アトミック》は、科学と政治ののっぴきならない関係を極限まで追求した。フィリップ・グラスの《サティアグラハ》も、独特のミニマル・ミュージックの手法で、ガンジーの思想の高潔性を訴えた。いずれも、演劇では表現できない、音楽劇ならではの深さを持っている。音楽も古さを感じさせない、まさに「現代音楽」である。

    《夜叉が池》の失敗は、現代日本に生きる作曲家に、いまいかなるオペラを創るべきなのか、という問題意識が欠落していたからではないのか。それは作曲技法以前の、もっと困難で深刻な、アイデンティティに関わる問題のような気がする。今秋11月23日の、西村朗氏の《バガヴァッド・ギーター》は、いったいどのようなオペラになるのだろうか。いよいよ期待が高まろうというものである。

    2013年8月7日 j-mosa