スポンサーサイト

  • 2020.04.21 Tuesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    楽しい映画と美しいオペラ――その54

    • 2014.11.11 Tuesday
    • 11:24
    音楽における「成熟」の発見――栗本尊子、94歳の歌声


    知人のソプラノ歌手、加藤千春さんが出演するというので、「かながわゴールデンコンサート2014」なるコンサートを聴きに横浜まで出かけた。33回というから連続コンサートとしては老舗の類である。12名の出場者のうち名前を明確に知っていたのは、恥ずかしながら3名にすぎなかった。加藤さんを除けば、佐々木典子さんと宮本益光さん。お二人とも現代の日本の声楽界を代表する歌手である。しかし、佐々木さんは体調を崩されて出演されなかった。

    私も含めて日本人のオペラ好きは、自国の歌手に対する関心が薄い。「今年のグラインドボーン音楽祭でヴィオレッタを歌ったロシア人歌手ギマディエワはいいねぇ」なんて話題には事欠かないが、日本人歌手についてはほとんど無知である。目配りを怠っていなければ、このコンサートに出場した歌手についての情報がこんなにも貧弱なことはあり得ないだろう。自戒をこめてそう思う。

    このコンサートの演目はまことにバラエティに富んでいる。シューベルトやリストの歌曲、ヨハン・シュトラウスのオペラアリア、山田耕筰や中田喜直など日本人作曲家の作品、「アナと雪の女王」など映画音楽もある。各歌手が好みのままに選曲をしたのだろうか。企画・制作、中村博之とあるから、テノールの中村さんの周辺の方々のようだ。10年前に脳梗塞を患われたそうで、右手がご不自由。左手で杖を突かれてのご出演だった。中村さんは企画・制作ばかりではなく司会も兼ねられ、ユーモアたっぷりな進行は、コンサートをたいへんアットホームな雰囲気にしてくれた。

    バラエティに富んでいたのは演目だけではない。歌手たちの年代も、若手から中堅、ベテラン、さらに超ベテランと、じつに多様であった。こんなコンサートは他では経験できない。歳を重ねることで、音楽表現はどのように変化するのか。予想もしなかったテーマに思いを巡らせることになった

    最若手の加藤千春さんは、持ち前の軽やかな美声でコロラトゥーラの難曲『アモール』(R.シュトラウス曲)を歌い切り、中堅の柳沢涼子さんはしっとりと『ピアニッシモの秋』(山川啓介詩・中田喜直曲)を歌う。ベテランの大川隆子さんの『落葉松』(野上彰詩・小林秀雄曲)では秋の深まりがいっそう心に染み入る。宮本益光さんの『木菟(みみずく)』(三好達治詩・中田喜直曲)は完璧な歌唱。力強いバリトンは曲の陰影も深く、文句のつけようがない。しかし、最後に登場した栗本尊子さんについては、どう表現すればいいのだろうか。

    栗本さんは宮本益光さんが押す車椅子に乗って登場された。長老の中村博之さんが「栗本先生」と紹介する。いったいどのような位置にある人なのか、見当もつかない。しかし彼女の発する第一声を耳にしただけで、強い衝撃を受けた。まさしくプロの声である。それは、車椅子のお年寄りにしては、などの次元を超えている。優しくてまろやか、さらにそこに、深い哀しみといった情緒が漂う。彼女が歌った『霧と話した』(鎌田忠良詩・中田喜直曲)は、文句なしにこの夜のコンサートの白眉であった。声や技巧を超えた、「ほんもの」に巡りあったという喜びをおぼえる。94歳というお歳を知って、驚きが倍加した。歳を重ねることは、なんと素晴らしいことか! 音楽においても、年齢を伴った成熟というものがあることを実感して、心温まる思いで帰宅したのだった。

    2014年11月1日 於いて神奈川県民ホール 小ホール
    2014年11月10日 J.mosa