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    楽しい映画と美しいオペラ――その68

    • 2016.11.30 Wednesday
    • 12:27

    革命を予感させる放蕩者――北とぴあの『ドン・ジョヴァンニ』


    悲劇的な未来を予感させる暗く重厚な響き。一転、曲調は軽快味を加えて、そのあと明と暗は絡まりあいつつ、レポレロの最初のアリアに引き継がれる。『ドン・ジョヴァンニ』の序曲は、じつに不思議で、とらえどころがない。それでいて、心に強く訴えかける。数あるオペラ序曲のなかでも、名曲中名の名曲である。オペラのエッセンスが、この序曲に凝縮されている。

     

    柔らかく、奥深く、寺神戸亮が紡ぎ出す序曲を聴いていると、この日この公演に先立って根津美術館で観てきた円山応挙の絵が心に浮かんできた。雨に濡れ、風にそよぐ竹林を描いた「雨竹風竹図屏風」からは、湿気を含んだ空気まで感じられたし、華麗な羽をどっしりと垂らし天に向かって鳴き声を上げている「牡丹孔雀図」には、まるで生きているかのような生命力が溢れていた。表現力の類ない豊かさは、まさにモーツァルトに通じる。

     

    さらに、これがひとりの画家の作品かと思えるほど、応挙の作品は多様であった。同じように、モーツァルト作品の多様性は他に例をみない。私の愛してやまない、ダ・ポンテ台本による三部作、『フィガロの結婚』『コシ・ファン・トゥッテ』『ドン・ジョヴァンニ』にしても、それぞれが愛をテーマにしながら、いかに異質であることか。

     

    モーツァルトと応挙を同じテーブルで語るなど奇妙なことなのだが、じつはまったくの同時代人なのだ。応挙は1733年に生まれて95年に亡くなっている。モーツァルトは1756年生まれで没年は91年。ウィーンと京都、隔絶の距離にありながら、同時代性というのは不思議なものだと思う。

     

    さて、北とぴあの『ドン・ジョヴァンニ』である。これは、歌手とともにオーケストラも舞台上にあるという、セミ・ステージ形式であった。衣装を着けて演技はするものの、舞台装置はまったくない。余計なものがない分、モーツァルトの音楽の美しさがストレートに伝わってくる。費用をかけないでいかに上質の舞台がつくれるのか、という見本のような上演であった。

     

    実演、ビデオ、CDと、いままでいくつかの『ドン・ジョヴァンニ』を体験してきた。そのたびに、心を奪われる登場人物が異なってくる。作品の多義性によるものに他ならないが、これは演出の多様性を生み出している。また歌手の存在感も大きい。昨年9月17日のロイヤル・オペラによる上演(NHKホール)では、ドンナ・エルヴィーラの改心に瞠目したが、それはジョイス・ディドナートが素晴らしかったからだ。柔らかな声、細部にわたるコントロール、最終場面までの心の移ろい。

     

    革命は階級差を意識したところからはじまる。今回のツェルリーナとマゼットは結婚衣装ではなく農民服である。マゼットの、貴族ドン・ジョヴァンニに対する反感も強烈である。やがて彼ら庶民の時代がやってくるだろう。佐藤美晴は、このオペラの初演から2年足らずで勃発するフランス革命も見据えて、演出に当たったに違いない。

     

    世界が崩壊しようと、地獄に落ちようと、俺はやりたいことをやる! 改心などするものか! 自由万歳! ドン・ジョヴァンニの、この心意気、反抗心こそ、革命の核心であり、このオペラの魅力の源泉である。ゆえに佐藤は、正義の大団円でオペラを終わらせない。皆が勝利の歌を合唱しているのを尻目に、地獄に落ちたはずのドン・ジョヴァンニは、優雅にピアノを弾いているのである。

     

    歌手、オーケストラ、演出と、三拍子揃ったオペラを堪能できた。何よりの功労者、指揮者の寺神戸亮さんには、格別の感謝を捧げたい。


    2016年11月25日 北とぴあ さくらホール

     

    ドン・ジョヴァンニ:与那城敬
    レポレロ:フルヴィオ・ベッティーニ
    ドンナ・アンナ:臼木あい
    ドン・オッターヴィオ:ルーファス・ミュラー
    ドンナ・エルヴィーナ:ロベルタ・マメリ
    ツェルリーナ:ベツァベ・アース
    マゼット:パク・ドンイル
    騎士長:畠山茂

     

    指揮:寺神戸亮
    管弦楽・合唱:レ・ボレアード

     

    演出:佐藤美晴

     

    2016年11月29日 j.mosa
     

    楽しい映画と美しいオペラ――その67

    • 2016.11.06 Sunday
    • 23:59

    サスペンスフルな不条理劇――深田晃司『淵に立つ』

     

    両親と娘の三人が朝の食卓を囲んでいる。妻と娘は神に祈りを捧げているので、キリスト教の信者だと分かる。夫はそれを意に介することなく、すでに食事を始めている。次の場面は夫の作業場。溶接作業なのか、火花が散り、騒音も著しい。彼は「行ってきます」の娘の声には辛うじて返事をするが、妻の声には反応しない。

     

    そんな家族のなかに闖入するのが、浅野忠信演じる八坂である。工場主の利雄の古くからの友人であるらしく、住み込みで働くことになる。言葉遣いは丁寧で、白いワイシャツを常用するなど、几帳面な性格であることが分かる。彼についての情報は妻には何も伝えられない。しかし観客は、彼と利雄との会話から、彼が何年かぶりに刑務所から出てきたことを知る。

     

    八坂はじつに不可解な存在である。小学生の娘にまで敬語で接するし、彼女にオルガンを教えもする。妻の章江とは信仰についての会話もこなす。章江は彼から、犯した殺人の罪についての告白を受けても、その誠実さを疑わない。そして惹かれていくことになる。そんな、冷静で、知的で、誠実な八坂が、あるとき一瞬豹変する。利雄に向かい、積年の怨念を爆発させるのだ。「お前、本当にちいせい奴だな。そんなに怖いか、俺が?」。このときの八坂の恐ろしさ、不気味さはただごとではない。

     

    この映画は、ある平凡な家族が、異分子の闖入によって崩壊する様を描いているといえなくもない。しかし八坂が不可解な存在であるように、そんな一言でいいつくすことはできない。そもそもこの家族は、八坂が登場する前から崩壊していたのであり、彼の存在によって、亀裂が顕わになったにすぎない。八坂の存在を掘り下げることで、深田監督の考える「家族とはなにか」が見えてくるような気がする。

     

    八坂が犯した11年前の殺人、そして利雄と章江の家族にもたらした大きな罪、これらについて、この映画は詳細に語ることはない。子どもにも好かれる心優しい八坂が、なぜ酷い罪を犯してしまうのか。小さな伏線は敷かれてはいるが、結局私には分からなかった。じつは当の八坂自身にも分からないのではないか。人間は、自分のことすら明確には理解できない存在である、と考えるほかはない。そんな不条理な八坂を、優しく、繊細に、知的に、冷酷に演じた浅野忠信は素晴らしい。

     

    一人の人間を丸い円で表すとする。人と人とのつながりは、その円が交わることである。交わる部分が多いほど親密な関係といえる。しかし完全に交わることなどあり得ない。まして自らの円についての認識が薄弱であれば、他者との関係は苦行とならざるを得ない。人は家族をつくることができるのか? 深田監督は、恐ろしいまでの人間の孤独を描いているのだ。

     

    この映画は、多分に心理学的・哲学的な映画である。しかしながらとてつもなく面白い。ストーリーの展開に飽きさせるところがない。十分にサスペンス映画でもある。役者も皆いい。そして闇のように暗い孤独を描きながら、それでもなお生きなければならない人間の背中を、最後にそっと押してくれる。深田監督の力量は確かである。

     

    2016年11月1日 有楽町スバル座
    2016年日本・フランス映画
    監督・脚本:深田晃司
    出演:浅野忠信、筒井真理子、古館寛治、太賀、篠川桃音、真広佳奈

     

    2016年11月3日 j.mosa