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    フォーラムをめぐる人々ーむさしまるのこぼれ話 その八 台北の青い空

    • 2018.12.16 Sunday
    • 01:17

     

    台湾の映画監督侯孝賢(ホー・シャオシェン)の作品中でいちばんのお勧めは、と問われたら、ためらうことなく「非情城市」と答える。今まで観た台湾映画のなかでは屈指のものだ。けれども好きな昨品は、と聞かれたら、たぶん「戀々風塵」とつぶやくだろう。主演女優シン・シユウフェンのたたずまいに心揺さぶられるのが第一の理由だ。

     

    女優シン・シユウフェンは「童年往時」にも「ナイルの娘」にも「非情城市」にも登場する。けれども、わたしにとっての彼女の魅力は「戀々風塵」のアフン役に尽きる。そりゃあなるほど、「非情城市」で演じるヒロミは柔らかさと落ち着きを感じさせて、ほんわりと穏やかな気持ちになる。けれどアフン役のぎこちなさの残るあれやこれやの表情には、田舎から都会に出てきた若者の世慣れぬうぶさと不安が立ちこめていて、思わず寄り添いたくなるような共感を呼ぶ。

     

    その不安を切り取ったワンショットが写真の彼女だ。場所は首都台北。一年早く上京した近所の先輩アワンが出迎えにくるはずの駅のプラットホームに、アワンの姿をさがす彼女の制服姿がある。手にもつ袋には、アワンの祖父が栽培したサツマイモが入っているはずだ。クリッとした瞳の田舎娘まるだし。どうも素人っぽい。それもそのはず、演じる彼女は台北市内で侯孝賢監督に映画出演を誘われてからさして時間がたっていない。この監督のすごさは、そんな女優の素人臭さを生かして、幼馴染の相手への言葉にできぬ、都会生活の寂しさの入り混じった慕情を、控えめに表現しているところだろう。

     

    その控えめな表現の間接的映像の見事さが、理由の第二になる。その代表的シーンは、仕立て屋に勤めたアフンに、しばらくぶりにアワンが訪ねてくる場面だ。ちょうど田舎から妹の手紙がアフンに届く。寂しくて泣き暮らしていたこのアワンに笑顔が戻る。そして、読んだ手紙をアワンに渡す。黙読するアワン。テーマ音楽が流れる。そこから映る映像は、台北の商店の看板と、そのうえに広がる、電線越しのアオ・ゾラ(青空)だ!

     

    この青空を、アフンの心に浮かぶ、そしてそれに思いを馳せるアワンの、心の風景といわずして何といおうか。

     

    「青春四部作」と称される、こんな映像を撮った侯孝賢のボックスを貸してくれたのは、今は亡き尾河直哉である。

     

    謝謝、尾河。

     

    むさしまる
     

    楽しい映画と美しいオペラ――その82

    • 2018.12.16 Sunday
    • 01:03

    ヴェルディの「新しい喜劇」——カルロ・リッツィ指揮『ファルスタッフ』

     


    構築的で硬質な、ヴェルディ特有のオーケストラが会場に響きわたる。最初の音を聴いただけで、これは! と思う。緩急自在で重厚、さらに響きに奥行きが感じられる。それからの展開は、まったく期待を裏切らない。ああ、この音楽が、ヴェルディが到達した「劇音楽」なのだと、改めて彼の偉大さを実感する。歌手の声を聴くまでもなく、オーケストラが雄弁に物語を語っているのだ。いままで、CDで、ビデオで、もちろん劇場で、何度も『ファルスタッフ』は聴いているのだが、当日のカルロ・リッツィの指揮で、はじめてその本質を認識させられたように思う。

     

    いうまでもなく、『ファルスタッフ』はヴェルディが創作した最後のオペラである。前作『オテッロ』から6年、しかも年齢はすでに79歳。功なり名をとげ、故郷近くの広大な土地に大邸宅も構えている。創作の苦しみを味わう環境であったはずはない。アッリーゴ・ボーイト(作曲家・台本作家)の巧みな勧めがあったとはいえ、なぜ彼はあえて作曲の筆をとったのだろう。その答えが、当夜の公演で少し理解できたような気がする。

     

    モーツァルトの『フィガロの結婚』といい、ロッシーニの『セビリアの理髪師』といい、彼らの喜劇は音楽そのものが軽やかである。悲劇ばかりを27作つくったヴェルディの喜劇が、軽やかであろうはずはない(厳密にいうと、失敗に終わった『一日だけの王様』という喜劇が1作だけあり、彼がつくったオペラは合計28作)。音楽はやはり重厚といわざるをえない。しかし、そのなかに、おかしみが滲み出ていて、いささかの軽快さも垣間見られる。ある意味で、まったく新しい喜劇が生まれたのだ。そしてそこに、ヴェルディは、自ら到達した人生観を明瞭に反映させた。

     

    それにしても、男というものは愚かである。ファルスタッフは名誉にしがみつき、性的欲求を制御できない。フォードは世間体ばかりを気にして娘の心を理解できないし、嫉妬深い。ファルスタッフの二人の召使いも日和見主義が甚だしい。彼らに比べて、女性陣のなんと溌剌としていることか。ファルスタッフの欲望をそらし、娘に対するフォードの無理強いを軽やかに指弾する。その手段は、まずは連帯である。そして、男の俗物根性を見事に利用する。暴力や恐喝などというやぼな手段は用いない。

     

    もちろん、ファルスタッフとてやられっぱなしというわけではない。女性たちにさんざんいじられながらも、愚かな自分がいるからこそこのお笑い劇が成り立つのだと、太鼓腹をかかえて高らかに歌う。自分やフォードは馬鹿者だが、自分たちもこの世の中には必要ではないか、という訳だ。妻と二人の娘を亡くした絶望からヴェルディの心が自由であったとは思われない。売れないどん底の時代も忘れたことはないだろう。そんなヴェルディであるからこそ、重厚でありながらも軽やかな、新しい喜劇をつくることができたのだと思う。「人生は冗談!」。このフィナーレの大フーガを書くために、ヴェルディはあえて老いの筆をとったのではないだろうか。

     

    ジョナサン・ミラーの舞台は、シックで奥行きが深く、簡潔。光と影が美しい。エヴァ・メイのアリーチェを聴けたことも嬉しいことだった。気品があり、機知にも富んだアリーチェにぴったり。若いナンネッタとフェントンを演じた幸田浩子と村上公太の高音の美声にも拍手。総じて、指揮、演出、歌手の三拍子揃った名舞台だった。

     

    2018年12月9日 新国立劇場

     

    指揮:カルロ・リッツィ
    演出:ジョナサン・ミラー

     

    ファルスタッフ:ロベルト・デ・カンディア
    アリーチェ:エヴァ・メイ
    フォード:マッティア・オリヴィエーリ
    クィックリー夫人:エンケレイダ・シュコーザ
    ナンネッタ:幸田浩子
    フェントン:村上公太
    メグ:鳥木弥生
    バルドルフォ:糸賀修平
    ピスト—ラ:妻屋秀和
    カイウス;青地英幸

     

    東京フィルハーモニー交響楽団
    新国立劇場合唱団

     

    2018年12月10日 j.mosa

     

    おいしい本が読みたい 第33話 これからの、わたくしの、人生は…

    • 2018.12.12 Wednesday
    • 01:12

     

    どうしてこんな面白い物語を読まずに積んでおいたのだろう。読み終わって、最初にこみあげてきた気持ちがこれだ。奥付は2008年10月だから、手に入れたのは今から10年前のこと。白状すれば、一度読み始めたのだが、たちまち挫折した。理由は単純明快で、本の余白があまりにも少なすぎた。文字間も行間も、そして余白もまた、呼吸できるだけの空間がなければ文字と文が生きてゆけない。余白の豊穣というではないか。

     

    こうして背表紙ばかり眺めていた本がジョルジェ・アマドゥー『丁子と肉桂のガブリエラ』(尾河直哉訳,彩流社)だ。心機一転して手にしたのには、ワケがある。訳者の尾河は旧友で、この夏に入って体調を崩しているとの噂を耳にしたのだ。尾河訳の底力は須賀敦子賞に輝いた『カオス・シチリア物語』(白水社)で証明済みだから、余白の息苦しさに耐えさえすれば楽しい物語世界に浸れるはず、それで読み終わったら激励の感想を尾河に書いてやろうと思って「ガブリエラ」の物語に入り込んだのだった。

     

    舞台は南米ブラジルの港町イリェウスで、ほぼそこのみで展開する。そして、この町こそが主人公といってもいい。町の面々が集まるバー兼レストランを軸に政治運動、男女の色恋沙汰、金儲けに群がる欲望の数々と、わたしたちの今の生活がそこに活写されたかのような、ちょっと猥雑で彩り豊かな世界が展開する。とどのつまり、イリェウスの町は生きているのだ。

     

    町が主人公という点で、この小説はガルシア・マルケスの『百年の孤独』に似る。さらに、オノレ・ド・バルザック描くパリの物語にも通じる。

     

    マルケスにもバルザックにもそれぞれの独創があるが、アマドゥーのそれは一風変わったガブリエラの創出であろう。この娘の常識破りというか余りにも天真爛漫な言動は、思わずわたしたちの守っている常識がマヤカシじゃないのか、と問い詰めてくる破壊力をもっている。結婚という制度もそれに縛られる性の営みも、ガブリエラという野性児にとっては欺瞞以外の何ものでもない。

     

    さて、読了後の興奮を抑えがたく訳者本人に詫びを入れつつ感想を書いた。今頃読んですんまへん、でもこんな風に世界を丸ごと書く小説が少なくなったなあ、と。かの訳者はすぐ返事をくれた、あれは優れた全体小説だ、こういう小説が読まれないこと自体が日本の貧困を示している、と。

     

    そんな風に怒っていた訳者尾河が、ガブリエラ発行のちょうど10年後のこの10月に他界した。あまりにも早い訃報に呆然とする。かつて谷沢永一は親友開高健の死去を悼むあまり『回想開高健』を書き、その末尾にこう記した。「これからの、わたくしの、人生は、余生、である。」 尾河の死を前にして、今あらためて、わたしは、この一文の読点の重みを噛みしめている。

     

    むさしまる

     

     

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