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    楽しい映画と美しいオペラ――その86

    • 2019.04.07 Sunday
    • 20:52

    古典芸能継承の光と陰————狂言を伝える『よあけの焚き火』

     

     

    日本ほど古典芸能が、原初の形で残っている国は珍しいという。能・狂言はその典型だろうし、これらを専門に上演する国立の劇場も存在する。毎月4、5演目は上演され、チケットを取るのもきわめて困難である。国立能楽堂以外でも、観世流をはじめとする主要五流派の劇場でも盛んに上演が行われている。つまり、能・狂言は、現代に生活する人たちのあいだに、いまだに生き生きと根づいているということだ。

     

    どうしてこのようなことが可能となったのか。その理由を問う能力はとても私にはない。室町時代にまで遡る膨大な歴史的知識が必要だろうし、邦楽に関する音楽的知識も欠かせない。しかしながら、映画『よあけの焚き火』を観ることで、その現代的生命力をかすかながら体得できたような気がする。伝承とは、とてつもない危険を伴うということも。

     

    映画は、現代の能・狂言の世界で活躍する大藏基誠(おおくらもとなり)と、その10歳の息子康誠(やすなり)を主役として、伝統芸能がいかにして若い世代に伝承されるか、をテーマとしている。ドキュメンタリーではなく、フィクションも含まれていると明言されているが、芸の伝承の部分は事実を反映していると解釈する。そうでなければ、この映画の意味はないのだから。

     

    ピアノやヴァイオリンもそうなのだが、芸の世界では、幼児からの教育が欠かせない。芸が、空気のように体に染み込む必要があるのだ。NHKの「ライフ」というコント番組で、内村光良と市川猿之助が一緒に踊る場面があったのだが、身のこなしに歴然と差がある。しなやかさが違う。内村がいかに才人であっても、この差はいかんともしがたい。

     

    基誠は、厳冬期に、康誠を伴って蓼科の別荘に赴く。ふたりだけで生活することで、芸を息子に叩き込もうというわけだ。味噌汁を味わいながら、その行為がそのまま狂言の作品の世界となる。「うもうてたまらん」「なかなか」。漫才のような掛け合いを演じる。雪のなかの遊びも、教育の手段に使われる。着物をつけた正規の稽古の厳しさは並ではない。父親の存在は絶対であり、息子はただただ父親に従う。

     

    このような厳しいお家芸のなかでないと、芸は伝えられないのか。連綿と続く「家」の存在。身分制の厳しい江戸時代では、生まれ落ちた家によって一生が決まった。職人であれ農民であれ、父親の技を受け継ぐしかなかったのだ。親の背中を見て子は育つ。教育の原点であろう。しかし時代は変化した。技を受け継ごうにも、父親の背中はない。教育の困難さをいわれる所以である。古典芸能の世界では「家」は厳然として存在する。父親は迷いもなく教育ができるのだ。

     

    「天皇に人権は存在するか」。改元問題がかまびすしいいま、こんな問いも投げかけられている。天皇家に生まれた天皇に、天皇を離脱する権利は存在するのか、という問いである。もちろん、天皇家と大藏家を同一には論じられない。しかし、自らの人生を自らが選ぶ、という人権の観点からふたつの「家」を眺めると、共通の問題点が立ち現れる。大藏家には当然のことながら離脱の権利はある。だが、幼児期から有無をいわせぬ教育を施される子どもたちに、はたしてその権利を行使する力が残されるものなのか。

     

    『よあけの焚き火』は、美しい冬の蓼科を背景に、親と子が繰り広げる、厳しくも温かい伝統芸能継承の映画であった。そして、芸術とはなにか、人間とはなにか、という根源的な問いを投げかけてくれる映画でもあった。主役の大藏基誠さん、康誠さんには、これから立ちはだかるであろう困難を乗り超え、豊かな狂言の世界を築き上げていってもらいたいと切に願う。

     

    2019年3月27日 於いてポレポレ東中野

     

    2018年日本映画
    プロデューサー:村山憲太郎
    監督・脚本・編集:土井康一
    撮影:丸池納
    音楽:坂田学
    出演:大藏基誠、大藏康誠、鎌田らい樹、坂田明

     

    2019年4月3日 j.mosa